ちいさな野菜畑

ちいさな野菜畑ブログ

今回は…

久しぶりにラグビーを見た。
客商売をしていると、みたい試合の時に客が来る。

どうでもいいときは客が来ない。

だからついつい見逃したりどうでもいいゲームを見る羽目になるのだが…

今回は日本とフィジーだ。
フィジーの体格と顔をみたら、誰もがすくむ。
ニュージーランドのオールブラックスや、
南アのスプリングボックスなど屁でもない。
2メートル近くの150kgの黒人が砂塵を巻き上げて
牙をむき出して走ってきたら、誰もが避ける。
タックルなど入っている暇はない(?)
それがどんな戦いを挑むのだろう。興味津々である。

今年のワールドカップの盛り上がりがもう一つである。
前回の南アをやぶった番狂わせで相当盛り上がったが、
今回は…どんな調子だ?と思って
仕事がない毎日が日曜日、らっきょの塩漬けとビールを片手にテレビの前に座った。
サッカーはトイレ休憩のときに点が入る。
ラグビーは、トイレ休憩に行く暇がない。
しかし、前回のワールドカップとメンバーがガラリと変わった。
五郎丸が解説をしている。畠山もいない、ウィングの山田はどこへ行った。
目新しい外人が、次から次へとでてくる。
やはり一度、オールジャパンでメンバーを組んでそれから入れ替えしようよ!
そうでないと覚えられない。(泣)

ラグビーは国対抗だが、クラブチームの性格を残している。
それは植民地宋国のイギリスから発祥しているからである。
イギリスは、イングランド・アイルランド・ウエールズ・スコットランドと4チームが出ている。そして植民地だった国のチームもでている。
国別対抗と言いながら、クラブ対抗の要素を残した歴史あるワールドカップなのである。だから国籍は問わない。伝統に基づいた不思議なルールだ。

テレビを見ていると不思議に体があちこちと動く。
ボールを落とすと拾うふりをする。
キックをすると足が動く。ひとりでに…
そんな80分間が終わると汗びっしょりだ(?)
いつの間にか終わっていた。

勝った!
相手を走らせないで止め、二人がかりでタックルし
素早いパス回しで相手を翻弄した。
性格なキックと、力強いスクラム。
高さのあるラインアウト、すべてが勝っていた。

今回もイケるか?

あるバリスタの悩み

朝から晩まで時間があると珈琲を淹れている。
とりあえず目覚めて一杯。
食事の後は、濃いめの一杯。
10時になったら、ゆっくりと一杯
昼飯を食べたら、まったりと一杯。
3時になったらお菓子をつまみながら一杯
夕方になったらビールを一杯

そんな珈琲の毎日を淹れている。
それぞれ淹れ方と煎れる珈琲豆が違う
仙台の焚火焙煎の浅煎りと深煎り
東チモールの豆を長沢で焙煎したもの
雫石の風光舎ブレンドの中浅煎りと深煎り

そして淹れ方も違う
メリタの一穴
カリタの三穴
ハリオの60Vと…

それに細引きと荒引きと
低温抽出と高温抽出

組み合わせが幾通りもできて、一つの豆から様々な味が抽出される。
深い、深い珈琲の世界だ。

失敗したな?
少し絞ればよかった。

暇な一日

行くところが無くなって暇な日が続く。
いや本当は暇ではないのだ。やるべきことが山とある。
しかし、切羽詰まっていない。それが問題だ。
切羽詰まってやろうとすると、時間がないと言い訳する。
切羽詰まらないと、やる気が起きないと自分を納得させる。
そんな日々が嫌になって、何か始めようとする。
とりあえず洋服ダンスの中を片付けた。
だいたいがウエストが79から94までのパンツがあるのだ
やせたら79は無理やり入る。
ちょっとお腹がくちくなって、少し動こうとすると94のゆっくりしたパンツを履こうとする。
だから洋服ダンスは、ほとんど履かないものだらけでいっぱいだ(?)


そんな日々の毎日に、様々なことが頭をよぎる。
少し頭を整理しようとした。

岩手山と姫神山(並んでのツーショット)

「はたらく」という言葉は「はたを楽にする」と、日本人の働き方を表していた。
つまり働くことによって、周りとの人間関係を良くするというような意味かと思う。
日本人は江戸時代以前より、働くことによって自分の技をたかめ、自身が向上し周囲に貢献をするという精神の習慣を持っていた。それが欧米の産業革命後、日本も影響をうけて、働くことによって賃金を得て、生活を成り立たせるという働き方に変わっていった。
つまり今のグローバル社会は、賃金を得るために、自分の時間を売るのが労働になってしまった。
そこには時間あたりの効率的な働き方が求められ、働くことが単なる効率化競争になってしまい
労働の楽しさを得ることが難しくなった。
本来、島国の日本人は、働くことよって周囲から喜ばれ、自分が地域社会から認められることを喜びとする人ではなかったのか?
そんな疑問を持ちながら、今の人口減少の地方都市の中小企業のあり方を考えてみると、
これからの生き方が見えてくるような気がする

つまり、物を売るのではなく、物を作った自分の技で相手との関係性を作るという生き方である。

そこには、自分の技の向上が求められ、それを認める地域の人々がいて、ものが流れるという
本来の、顔だけでなく、人が見える関係の世界が広がる。

そこは「見える範囲」という、広がっていかない循環の世界である。まさに、これからの人口減少社会の地方のあり方ではないだろうか?
自然豊かな地方都市は、これから減少スピードが増し、あっという間に限界集落になってしまう。そこには人が少なくなっていくことで自然によりそった、人と人が助け合う地域ができる。
そんな地域の核となる小規模複合融和施設を作りたいと思うその店は、その狭い地域にとって必要な業態の店であり、みんなが関わり合って新しい関係性をつくることを目的とした店である。

これからのはやり

雨降りのとき高速道路を軽自動車では、弱高齢者は危険が危ない。
と言って長距離バスでも、道路が混んで時間が読めない。
手甲脚絆で歩くのも江戸時代ではあるまいし、とんでもハップン。
足も痛いし、荷物も持ちたくない。

そんな訳で、自宅から歩いて5分の山岸駅から電車に乗って、仙台へ向かおうと家を出た。
自宅がある山岸は、駅がある。バスの駅ではない。と言っても道の駅でもない。
国鉄の駅でもない。三陸鉄道の駅だと思う。
盛岡駅から二番目、最初が上盛岡駅、そして山岸である。近い。
スムーズに乗り換えができると、わずか3時間以内で東京駅に降り立てる
東京都内にいるよりも早い。
エレベーターが動かない新宿の高層ビルの最上階から歩いて来るよりも早い。

だから新幹線と思ったが、いつものこと魔子様は、肝心のものを忘れる。
あるき始めて5分。
「まだ時間ある?」「ん?」
「携帯を忘れた」と言って、慌てて山岸駅を目前にして戻った。

仙台の目的は「饂飩」である。
読めない人のために、カナをフルが「うどん」である。
生まれて、はじめての食べ物の思い出というのは「うどん」であった。
小学校4年のときに、仙台から岩手県の北上に引っ越してきた。
まだ寒い3月だっただろうか、4月はじめだっただろうか…
家は建てたばっかりだったと思うが、同じ作りの家が何軒も並んでいて
たまたま一軒空いていた。当然である
隣が製材所だったのである。あとから気がついたが
毎日毎日、ゴオ〜っという大きな丸鋸で丸太を切っていた。
音がうるさい。
建売の住宅だったが、そこだけ売れなかったのである。
建てた建築会社が、社宅として用意したのも当然
そこへに移ってきた社員の家族が、僕らの一家だった。
明日から、うるさい毎日が始まると知らずに
静かな夜に、初めてだろうと思うが出前なるものを頼んだ。
こたつ布団が無いまま、こたつに足をツッコミ、すすったのがうどんだった。
真っ黒な汁に、奇妙にしろくて長いものが横たわっていた。
塩辛かった

それ以来だから、うどんとの付き合いは、60年になる。
魔子様よりも長いのである。
しかし、うどんの歴史は、小生の人生よりも長いようだ。



焼却炉を買いに行った出張先の高松で讃岐うどんを始めた食べたときの感動。
年末のデパートの配達のアルバイトをしていたときに先輩が作ってくれた
おっきりこみという名の煮込みうどん。
秋田の稲庭うどんを、銀座で食べたときのおどろき。
ラグビー部の先輩が、婚約者の群馬のばぁちゃんが、
あっという間にむしろを引いて庭先で打ってくれた水沢うどんの衝撃。
新入社員のときに、近くにあった「おっぴぴ」と言う名の
まだ讃岐という名は知れ渡っていなかったころ新橋のうどんや。
 
「たぬきうどん」と言って、みんなに笑われた大阪国際ビルの地下のうどんや
(大阪では たぬき=揚げがのったそば きつね=揚げがのったうどん
 はいから(天かす=東京で言うたぬきうどん)

御堂筋で食べた、豪華な美々卯のうどんすき。
名古屋へ行ったらかならず天ぷらきしめん
出張帰りは、いつも東京駅の地下の博多うどんの「ごぼ天うどん」
ミナミとキタを往復しながら呑んで、〆に屋台で食べた「三塁打うどん」
その隣で食べたデザイナーの女が注文した「ホームランうどんの麺抜き」
山梨に行ったらかぼちゃのほうとう。
博多へいったときの「かろのうろんや」
そして子供の頃、毎日のように食べた「たまうどん」
うどんの思い出は、体が重いで…というほどあるが…

 蕎麦を食べるようになったのは「池波正太郎」を読む30代からである。
そんな人生の大決算を「うどん」でしようと思う次第です(大げさ)

仙台の佐藤さんから二軒の店を紹介された。
流行っている店と、流行っていないない店紹介するから…
「行ってみな?」
二軒とも腰があって汁も美味しかったが…
自分の想っているうどんと、ちっと違う。
確かに今のはやりと、前のはやりではあるが
これからのはやりではない。
それを探しに行ったのだが…
ひょっとしたら確かめに行ったのかもしれない。

まだ死なない

家庭菜園のすすめ
土壌微生物が免疫力を高めるという

数年前に、乳がんにかかってこれから手術だという戦友がいた。
大変なことだ。一生懸命に励ましていた
つい先日、連絡があった。
まだ生きている。

昨年、ステージ4だという知人がいた。
「治療を何もしなかったら余命は8ヶ月」という
そろそろ、やばいか?と思っていたが、
何もしないでも、進行していない。余命8ヶ月のままである。
聞くのを忘れた「いつから余命8ヶ月なのですか?」

若い友人がいる。
彼は抗がん剤の影響か頭を丸めている。
抗がん剤を4クールしている(?)という。
彼いわく「知っているおばさんは13クールして病院から表彰された」という
彼は言う「年をとって体力が落ちてから治療ができないかも…」

癌は早期発見・早期治療だという。
どうやら違うようだ。
そんな疑問も出ているようだ。
朝日新聞 論座引用
がん 早期発見・早期治療が善であるとは限らない

結局。人間が千差万別だから、様々な症例が現れるということらしい
知人夫婦は乳がんと胃がんの夫婦だったが、胃がんの旦那は心不全で急逝した。
親友の夫婦も両方共癌だったが、奥さんがなくなったあと、がん治療の退院後、独りで脳溢血でなくなった。

癌が発生しても他の原因で亡くなることが当たり前だ。
ひょっとしたら交通事故で一杯亡くなっているかもしれない。

そんなことよりも、自分らしく生きる。
死に至るまで成長(?)し続けるということが大事だ。
そして明日も無事な世界が広がることが…

ゆっくり温泉でも行って…
と思う人は羨ましい。
温泉に行くと血管が膨張して破裂して出血し止まらないのだ。
そんな人もいる。
無事な世界も、人それぞれ違うのだ。
無事な世界=いい言葉だ。

晩酌考

晩酌である

庭の菜園から魔子様がとってきた青菜で晩酌である。
らっきょうは、旬の塩漬け。
初茄子の味噌炒め
初大根葉の煮浸し
初胡瓜のマヨ味噌
鮭フレークのスパゲッティ
鶏ハムサラダ

愛知県の友人が家庭菜園の収穫と言って
フェイスブックに載せてきたので対抗しているわけではないが…
しかし、向こうではオクラが、もう収穫できていた。
オクラは高温作物で、こちらは7月も後半なのだが…
やはり早いというか…暑いのだ。

家庭菜園のもので晩酌をやるというのは幸せそのものである。
なんせ目の前で成長しているのが見えているのである
子供の成長をみながら、育てるようなものだ。

ビールはベアレンのシュバルツ。黒ビールである。
黒ビールと言うと、はっきりと好き嫌いがわかれるが、どちらでも一緒だ!
と思うのは小生だけだろうか…
ビールは、のどごし!喉を通るときの感覚だけである。
と思いながら最近飲みすぎるのでちびりちびりやっている。
グイグイやるのは若いうちなら、もうそれだけで腹一杯になってしまう。

さて今日の晩酌は…
と言っても今日は仕事をしただろうか?
だらしない格好でパソコンのキーボードと早朝からにらめっこ。
昼に2軒訪問して、帰りに墓参りというかたちの故人に報告をしてきたところだ。
晩酌が美味しいかどうかは、今日の成果によるのだが…

小生の感覚

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は IMG_2488-1024x768.jpg です
魔子様の花旅

魔子様の誕生日だ。
何日だ?とか…
何歳?だとか…
干支は何だ?とか…
機嫌は、いいか?…
体調は、どうだ?とか
他の人に、あまり細かいことを言うと、
魔子様の機嫌が悪くなるので黙っているが…
親友の奥さんの命日と一緒だ
師匠の奥さんの命日と一緒だ
長いこと生きていると、記念日が様々な人の記念日と重なるものだ

花束を送るなどというのは、人生で初めてである。
いや、昔あったな?
酔っ払って銀座の道端で花束を買って、いつの間にかバーの女に取られてしまった。(誰にも言っていないが…)
照れくさいのである。
花束を持って、歩くというのが…
しかし、この年になって花束を持って似合うシニアになりたい
と思うようになった。
心境の変化というか…
今、抱えている仕事のせいだ

ある花屋が言った。
ドイツでは週末、店を開けてはいけない。という法律があるそうだ。
しかし、パン屋と花屋は良い、というのだ。
なるほどパン屋はわかる、できたてのホカホカのパンは、家族団らんには必要だろう。
しかし、花屋も西洋では、それだけ大切にされ日常化されているのだ
日本では、せいぜい正月の花か?冠婚葬祭の花、
お盆とお彼岸と…(産直の…小生の感覚だが…)
お見舞いは…花より団子だろう(小生の感覚)
いただいても腹も膨れない(小生の感覚)
すぐ悪くなるのだから造花で…(小生の感覚)

ふとそんな事考えているときにアメリカ在住の日本女性がきた
「アメリカは、どうなの?」
「そう、なにかあったら、行きつけの花屋で花を買っていくわ」という
「う〜ん」

そんな訳で、花屋をベースにした店を作ろうと思っているのだ。
難しいのだ。だいたいがセンスがない。知識もない。
ただ若い友人たちがいる。それが頼りだ。

朔(ついたち)

「ついたち」になると、いつも思い出す。
「四月一日」という名前だ。
これは、若いときにタクシーに同乗したある合繊メーカーの担当者の名字だった。
タクシーの中で名刺を交換し、
「なんと読むのですか?」と聴くと
「わたぬき」と言った。
人生の中で出会った、変わった名前の筆頭である。

サンビルで喫茶店のマスターをやっていたとき
「”おじまさん”と、言うのですか?」と
 同い年ぐらいの品のいい奥様から問われた。
壁に「食品衛生管理者 小島」と書いてあったからである。
「よく読めましたね。普通、盛岡では”こじま”と言われますが…」
「わたしも”おじま”なのです?仙台出身なのですが…」
「僕も仙台ですが…、どこかで、つながっているかもしれませんね」
「仙台の岩沼の出身ですが…」
「そういえば中学の頃、家族で親戚の墓があると言って、岩沼の寺に墓参りによったことがある」
「ひょっとしたら、近いかもしれませんね」

以前は、知らない人と親しくなるのが苦手であった。
人見知りする質である。
今は、苦にならない。さまざまな事を言って共通項を探すことである。
様々なことを言うにしても、様々なことを知らないと言えない。
つまり、関係性を多く作るには、知ることである。
知らないことを、知ることは楽しい。
そうなのである。学ぶことは楽しいのだ。
今の学校は、楽しいのだろうか?
知りたいと思ったときに学べる、それが本当に身につくのだろう

今年始めてのとうもろこしである。
「どこ産?」と魔子様に聞く。「茨城産」という。
そうだよな。岩手産は、早い県南だって早生はまだ。7月の半ばだろう
最盛期は8月のお盆前だ。
しかし、北海道で啄木が「とうもろこしの焼くる匂いよ」詠んだのは10月頃だっただろうか?
何れにせよ旬は確実に前倒しになっている。

4月1日は綿抜というが、温暖化でわたぬきも早くなった(?)

塩らっきょう

塩らっきょ

無性に塩らっきょうが食べたくなった。

岩波書店の「図書」6月号に辰巳芳子が”雨を聴く日々”というエッセイを載せている。
毎月送られてくるこの小冊子は、ちょっと読みたい文章が満載である。
届くのを楽しみにしているし、ページをめくるのがまた楽しい。
今月のエッセイは、夏に欠かせぬ仕込みモノといって”らっきょう”が載せてあった。
辰巳芳子は、今の時期、梅を漬け込んだり、らっきょを漬け込んだり、様々な仕込みものの季節だが、我々の暮らしぶりが、マンション住まいだったり、勤めの関係で自由に休めなかったり、専業主婦がいなくなり、手作りモノが作れないような暮らし方になっていると嘆いていた。

全くそうなのである。
旬を大事にと言いながら、旬の時、忙しくて、ついうっかりして見逃すのである。
庭に南高梅が植えてあるが…収穫がずれたり、
満艦飾の柿がなっていても、干し柿にしなければ…と思いながら出かけないといけない。
忙しいと言い訳をしながら、毎年黙って見逃してきたのである。
魔子様が店の仕事を手伝わなくなり、せっせと庭仕事をやり始めた。
そうだ。せっかくだから魔子様の手作り「塩らっきょ」で一杯やるか?

辰巳芳子も言っている。
「暑い盛りにお酒と一緒に召し上がるには塩らっきょうのほうがよいでしょう」

今日は梅雨寒だが、熱燗で温まりながら、塩らっきょうで…
辰巳芳子も勧めているのだから…

ロングランⅡ

家族というのは厄介なものである。
人生の最後までつきまとう(?)
それだから信頼するし、頼りにする。
そして親は育て上げないと…と思いながら育てられる。
子供は親を見上げながら、自分自身と重ね合わせる。
小さな頃はいいが、だんだん社会が広くなってくる。
人間は社会的動物であるというが、家族でもある。

その葛藤の中で生きているのをまざまざと吉塚一家は見せてくれた。
ここまでフィルムに収めたのは遠藤監督と吉塚一家の信頼のなせる関係であろう。

農業の世界に飛び込むと、父親と長男の軋轢はよくみる。
いや、それしかないだろう
「早くオヤジが死ねばいい」と思っている息子のなんと多いこと
しかし、それは自営業のなかでも見られる。
親と子、自分の人生(経験)を教え込もうとする親
新しき社会を切り開こうとする子供との軋轢である。
あたり前のことであるし、誰もが経験することである。

あの荒れ狂う自然の中の片隅で一家が寄り添って生きる。
そこには吉塚公雄の一家を守るという責任感が牧場を覆っていただろう
そして、それには若い頃薫陶を受けた猶原先生の
「山地酪農は千年続く酪農」という言葉が重くのしかかってきているだろう
自然という大きなもののなかで、何を信じで生きるか?
彼にとっては猶原先生の言葉を信じ、家族を頼りにして
大きな自然と闘ってきたのではなかろうか…

しかし、自然と戦うべきなのだろう?
ある農家の会で先生の指導する方法と違うやり方の人がいた
理論的にも納得でき、現実的であるにもかかわらず。
小生は「先生!なんで先生の教え通りやらないのですか?」と聞いた
そうすると先生は
「場所・場所によって、自然も違うし、自分の条件だって違うのだから、違って当たり前なのだ」
と、こともなげに言い放った。

基本の山地酪農があって、
その人なりの多様な山地を作り出して、家族のなかに人が集まり、
多様な家族ができる。
そんなことを、ふと感じた

吉塚公雄は基本に忠実な、いや猶原先生との…客との…約束をしながら
家族を守ろうとしている。
そのあまりにも、しんどさを見ていて涙が出てくる映画だった。