ちいさな野菜畑

ちいさな野菜畑ブログ

盛岡の幸せ

冬は湯豆腐・夏は冷奴
コレが夕食の定番である。
何と言っても、それ以上腹に入らないのである。

 


朝出かけるときに昆布を一枚、鍋に放り込んで水を入れる。
帰ってきたら、とりあえず鍋に火を入れて煮立たせる。
そこで火を止めて、豆腐を半丁。5分。
5分の間に薬缶で湯を沸かし、熱燗を…
5分立ったところに、熱燗と湯豆腐が揃い踏み
熱々の燗酒と、ほろほろの湯豆腐が出来上がる

コレがスムーズにいかないと、一日が終わった気がしない
イライラして人に当たる(摩子様のときが多い)


朝、木綿豆腐の三分の一を、奴専用の丼に入れてラップをして冷蔵庫に入れる
帰ったら、おもむろにラップを剥がして、その時々のドレッシングを取り出し
ドレッシングは凝る。

岩塩にオリープオイル
オイスターソースに青じそ
梅酢にいりごま
玉葱とホワイトソース
ベーコンと黒胡椒
……

そして缶ビール(発泡酒とも言う)のプルトップを引き抜く

コレがスムーズにいかないと、一日が終わった気がしない
イライラして人に当たる(摩子様のときが多い)

二人暮らしだから当然魔子様しかあたり用がない。

 

年間に豆腐を多分180丁は食べるだろう

朝食にも…
店の昼食にも…
テーブルに豆腐が上がる場合があるから…

 

盛岡は豆腐の消費量が日本一だという
それは300g計算で年間100丁食べるという

小生のは田楽茶屋の木綿豆腐だ
田楽茶屋の木綿豆腐を知ってるかい?
なんと450gあるのだ
それがなんと140円という、すぐれものだ
それを年間180丁だから、300g換算だと…
いっぱいだ!腹いっぱい!

そしてすべて手づくりなのだ
だから時折、固かったり柔らかめだったりすることもある
それはタマ母さんの愛嬌で、カンベンだ

 

だいたいが豆腐が手づくりでなくて、何が子作りなのだ(意味不明)
昔は町内会に一軒、豆腐屋が有ったのだ。
昔、高校生時代に住んだ北上は、学校へ行く坂道の途中に豆腐屋が有った
今の盛岡にも、ラッパを吹いて自転車に乗っけて売りに来る豆腐屋がいる。
そんな身近な豆腐屋が、都会には無いという

なんと不便な…なんと暮らしにくい場所なのだ。
隣に豆腐屋が有る幸せ。盛岡の幸せである。

そういえば湯豆腐に敷いた昆布を、魔子様は「冷凍で取っとけ」と指示された。
そんな冷凍昆布を、鰹節と煮て御飯のお供に…

日本酒と醤油と豆板醤で辛めで煮詰めてビールのお供に…

盛岡の夏の幸せである。

鉢の皮

大雨である。豪雨である。滝のように流れてきた。
表現が、皆一緒だ。
酔っ払って結婚式の帰りに寄った合鴨稲作農家の武田哲は、

「見ました?結婚式場のそばの中津川!
もう水面が、土手すれすれで、今にも溢れそうで…
気が気でなくて…」

結婚式どころではなくて
たらふく呑んだらしい(?)
中津川沿いの今流行の結婚式場、ハウスウエディングに呼ばれたらしい。

大雨は店にも浸水してきた。

雨樋が壊れているのか…
ものに雨が落ちて水が入ってくるのか?

そのたびに修理するのだが、また新たに浸水箇所がみつかる

 

店の地名は「三割鉢の皮」という珍しい名前だ。
「三割」は、岩手由来の名前だ。
大きな岩が三つに割れた場所という…(大きな岩が三つ有る、三石という神社がある)

〜〜〜〜ブログ引用〜〜〜〜〜〜〜
昔、「羅刹」という悪い鬼がいて、里を荒らしまわっていたそうです。そこで、里の者たちは、この神社の神様に悪い鬼を捕まえてくれるようにお願いしました。
この三ツ石の神につかまった鬼は、大石に縛り付けられ、もう悪さはしないということを誓わされます。その証拠にこの大石に手形をつけて、二度とここには来ないと誓ってこの地を去ることになりました。
大石に手形をつけたことから「岩手」の地名が、「もう二度と来ない」と言ったことから別名「不来方(こずかた)」とも呼ばれるようになりました。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

そして「鉢の皮」と言うのは
鉢の皮(表面)。つまり鉢用の土が取れるところ、つまり粘土質の土地柄であるという

粘土質なのである。

まだ今のところは良いが、以前の店は、ビニールハウスだった。
市街化調整区域で基礎を打つ建物が建てられなかった。
地面に太いパイプを差し込んで表面をならし、床用のビニールを敷いただけの施設だった。
当然、夏は強烈な暖房がきき、冬は酷寒の日々が続いた。
農作物が悪くならないように外に冷蔵庫を置き、朝夕と出し入れをしなければならなかった。

そして大雨が降ると、水が周辺からなだれ込んできた。

粘土質だから、浸透しないのである。
おかげで春先の雪解け水や、今回のような大雨のときは水深20センチぐらいのときも有った。
店内は長靴で歩かないといけなかった。
それに比べれば…

天国のようなものだ!

大雨になると前の店と「鉢の皮」の由来を思い出す。

びりょく

店に、いつも7時頃来ている。

本当はもっと早く来たいのだが、小生の朝の作業が遅いのか…
魔子様が、認知症の母親の世話が焼けるのか…

もう一つは、孫を保育園を送っていかないといけない。
娘夫婦の子供を7時開園の保育園に送ると、とうぜん7時以降の到着になる

その孫を送っていって7時半頃だろうか…店についた。
梅雨の雨の朝、アナベルの大輪の花が土手に咲き誇っていた。

駐車場には一台の車が…

誰だろう?と思っていると、女性らしい大きな甲高い声で

「すいませ〜ん、無断駐車して!
これから秋田・青森の友の会のメンバーと一緒に出かけるもので待ち合わせをしているのです」と
あれ懐かしい、Hさんの声が…。
相変わらず小柄ながら背筋がシャンとして天を向いて語りかけてくる

「友の会って…何?」
「羽仁もと子の考えに共感した人たちの婦人の友の読者グループ」という

そんなの知らない

全国友の会は1930年 羽仁もと子 の思想に賛同した女性たちによって生まれた団体です。
キリスト教精神に基づく愛と協力をモットーに 健全な家庭をはぐくみ
地域に働きかけ よりよい社会を創りたいと活動しています

よくわからないが、家事とか…育児とか…を勉強する全国にあるグループらしい
たしかHさんは、ガールスカウトの偉いさんで、障害者施設にも関係していて、NPOの理事もやっている女性活動家だ
「台風10号の復旧支援のために岩泉に行くところだという」

 

彼女とはPTAの友達である
初めて中学校のPTAに乗り込んだ時、(乗り込むという気概を持って取り組まないといけない事柄が有った)
孤立無援の小生に、応援してくれた女性が二人いる。そのうちの一人だ。
乗り込んで驚いたことにPTA幹部役員はかざりもの、他の役員は学校の親睦団体、多くのPTA会員は黙って三年すぎれば終わるという団体だった。
学校側は校長はPTA幹部の機嫌取り、先生たちはややこしい事が起きないように…黙って…という形ばかりの集まりだった。

これで子どもたちは良いの?と思ったが…

三年間役員に手を上げつづけ、”今まで自主的に手を上げた人はいない!“と言われたが
クラスの委員長までで、学年の委員長には選ばれなかった。
「あんたは、今頃出てきて…」と言われて
ようするにPYA役員は小学校からの仲良しグループだったのである。

集会で問題提起をしても、先送り。そして次回は無視。
呼び出されて行くと幹部が集まり「集会で喋るな!」と脅し
そんなときに集会で、「キチンと話を聞くように…」と声を上げ
その後もいろいろと相談に乗ってくれ、学校側に話をしてくれたのが一学年上のPTA学年長だったHさんだった。

さんざん三年間学校をかき回したが、結局、何も替わっていない。

学校は…組織は…堅牢である。
文科省。教育委員会、学校、PTA、

そして個人は微力である。ということを知った。

そんなことを思い出しながら、弁当の配達に豪雨の中、出かけた。
こんな雨の中、車の中で食べる弁当だという…

どこへ行くのだろうか…

 

 

 

 

 

 

 

有名と無名

亀の尾の玄米を、もらった
石鳥谷の高橋亮介くんからである
亀の尾は、よく知っているが、食べたことがない
彼に頼んで分けてもらった

物々交換だ
と言いながら、小生のほうが歩が良かった

美味しい米だ

よく考えてみれば、酒米だと思っていたが亀の尾は、良食味の飯米の基本だった
名前だけは「酒用の米」というほうが有名だが

実は戦前の良食味の陸羽132号
戦後のコシヒカリ、ササニシキの祖先である
明治の庄内地方の阿部亀治という人が選抜したという

ようするに田んぼをほっつき歩いて、冷害の年に実っている数本の稲穂をみつけ
それを数年かけて育てて種籾にしたのである
書けば二行で終わってしまうが、
その二行の裏には血の滲むような年月と智慧の集大成が有ったのだと思う

 

以前、志和にOさんという二反分百姓がいた。
彼は慣行栽培の兼業農家である。
家の前の田んぼが、たしか段々畑のように4〜5枚あっただろうか…
一番上にはちいさな細長い田んぼが有って、さまざまな稲が植えてあった。
あちこちでもらった種籾を植え、自分の田んぼで生まれた特異品種を選抜採種して育てていた
彼の段々畑は水が循環するようになっている。
一番下の田んぼまで、水が落ちると車の中古のエンジンでポンプアップして上に上げた
せっかくぬるんだ水を流してしまわず循環させたのである

彼の田んぼは、足あとで踏み固められていた。
通常、田んぼの外から肥料や農薬を動力噴霧器で飛ばすのだが、
彼は田んぼに入って、一株一株の葉色をみながら肥料を振ったのである。
(植物に必要な窒素は、足りているか足りていないかは葉っぱの色に現れる
葉緑素を形成する窒素が多いと濃い緑になり、少ないと薄い緑になる)
それをみて判断するのである。
ようするに稲と対話をするのである。

彼は「93冷害(平成5年の大冷害)」のときに11俵/反の収量を上げた
他の農家は2〜3俵。青刈りと言って稲刈りをするのも手間なので草刈機で刈った農家もいた
タイ米騒動が起きた年である。
彼が言った言葉「あの時 窒素を振っていれば12俵は採れたのに…」
彼はノートに気温・地温・水温。成長の草丈・分けつ本数とうとう成長を克明に記録していた。
そんな彼を、近隣で真似するものは誰もいなかった。

多分、庄内の阿部亀治もそんな篤農家だったのだろうか?
選抜した稲に自分の名前がつき、それが後世に残った。

有名なコメを食べながら、無名の農家を思った。

しかし、亀の尾はさっぱり系だと思ったが、しっかりと粘り系の米だった

これはいけそうだ。

 

 

こうば

トミカと言って、「トミカ」と思うのは、小生だけだろうか…

子供に「トミカ?」と聞いて欲しい
「トミカ」とは、だれもが車のおもちゃだ、とおもうだろう
誰だって、”おとなのオモチャ”とは、勘違いしないはずだ

ところがトミカは「トミカ」ではない
「十三日」と書いてトミカと呼ばせるらしい
十三日に市が立つ日だったのだろうか…
十三日町のことを、むかし盛岡の街中では「とみか」と言っていたらしい
定休日の朝、ネットを見ていたら「とみか」で
トークイベントが有るというので出かけた

注目の「とみか」である。
病院の合間に…仕事の合間に…
昼食と兼ねて…

さまざまな合間が重なって、そのイベントに潜り込むことができた

そのスペースは、シェアオフィスと言う、名前がBUMBOというらしい
がたがたと言う引き戸を開けて覗いた

若者が4〜5人が黙々とパソコンに向き合っていた。
そしてポツリポツリと集まって14〜5人になっただろうか…
トークイベントという会が始まったが…

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「十三日(とみか)」2階のシェアオフィス「BUNBO」を会場にしたトークイベントを開催します。
普段は入居者しか使用できないスペースですが、この機会にシェアオフィスを見学しに来ませんか?

第1回目のゲストは、たくさんの人を巻き込んで、被災した建物をDIYでリノベーションし、気仙沼初のシェアオフィス「co-ba KESENNUMA」を立ち上げた杉浦恵一さん。

杉浦さんは、熊本生まれ、愛知育ちの31歳。
高校卒業後、ヒッチハイクで日本を旅している途中に、東日本大震災が発生。すぐ支援に向かい、そのまま気仙沼に移住し、復興に携わってこられました。
2011年に立ち上げたキャンドルアートプロジェクト「ともしびプロジェクト」は、SNSを使って全国の協力者を巻き込み、手仕事を生み出して、気仙沼市内にキャンドル工房を設立するに至りました。

「co-ba KESENNUMA」は、20代を中心に若者が集まる場所になり、オフィス利用以外にも、セミナーやライブ、ご飯会や落語など様々なイベントや取り組みの発信源になっています。

最近は、お寺の住職とのコラボ企画「坊主BAR」や「他力本願寺」などの企画にも取り組まれ、全国で講演を行っていらっしゃいます。 もっと見る

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ろうそくの話とか…大震災の話とか…気仙沼の話とか…
工場の話とか…、イベントの話とか…さまざまな話がごっちゃになって
意味が不明である

とりあえず「楽しい」「ゆるい」「すくない」「工夫」「自分たちで」とか
話をしている人は、名前が通った人らしいが…
こちとらは知らない

意味不明な質問をして、トンチンカンの理解をして時間は過ぎた

 

帰ってから眠れぬ夜に調べて考えた

ようするにデザインとかクリエーターとか言う人のシェアオフィスで
さまざまな人たちが、あつまる場をつくろう
ということらしい

そこから新しいアイディアや、ビジネスが生まれて新しい展開(街・世の中)ができると言う発想なのだろう

2〜30年前の会社や組織が集まった異業種交流会の、現代版、個人的・創造的の若者版なのだろうと
夜食のラーメンを食べながら理解に至った。

独りよがりの初老の現実情報収集には、もってこいのツールかもしれない
とりあえず情報社会。情報がどんどん流れて廃っていく。
鮮度が大切であるが、それでいいのか…という問いかけもしながら、考えたいが…

しかし、みんなスマフォを持っている。こちとら、もっていても、使いこなせない。
年は取りたくないものだ…

謙遜

こびる食堂のテーブルには「醤次郎」と「唐辛子」がおいてある
カウンターにも、様々な調味料が置いてある
市販されているのも多いが、自家製のものもある

調味料を置くのは、アジアの文化だと言う
そういえば、洋食では調味料はテーブルにおいていない。
コース料理にしてもアラカルトにしても、皿をドーンと置いておしまいである。
「私の料理はこれだ!」と言う傲慢(自慢・個性的)な意思表示である。

 

昔と言っても、東京でギラギラしていた若い時分だ。
六本木の本格的中華料理で接待されたことが有る。

それまで紹興酒に氷砂糖を入れて呑むものだと思っていた
ところが接待した得意先は
「氷砂糖はね、私のお酒は、まだ熟成が進んでいません。どうぞ砂糖を入れて呑んでください」
と言う”謙遜なのだ!”と教えてもらった。

驚いた。
それ以来、氷砂糖を入れないで呑んだ。
それは、それで美味しかった。(酒はなんでも美味しいのだ)

 

日本では、さまざまな食堂で塩と醤油、唐辛子は常備。
ラーメン屋なら胡椒と餃子用に酢とラー油が置いてある。

当店は、岩塩、バジル塩。七味の辛口、大辛口、一味。ハバネロ。沖縄の島とうがらし。

市販の調味料と自家製調味料が、カウンターに置いてある

自家製調味料が、また増えた。

あるとき客が「青南蛮の醤油がないか?」と聞かれた
冷蔵庫を探したら、奥に昨年の夏に作った青南蛮醤油があった。
「これでいいですか?」と渡すと。嬉しそうに持って帰った。
辛味が絡んで、ちょうど冷奴にはちょうどいい。

 

あるとき池波正太郎の小説を読んでいたら「煎り酒」が出てきた
江戸時代の調味料だと言う
醤油は江戸時代が始まってからできた。
高級だったので、庶民は煎り酒を使っていたと言う
日本酒に昆布を入れて、梅干しで煮詰めたものだ。
さっぱりしてちょっと酸っぱい、冷奴にちょうどいい。

 

あるとき。ニラ玉を食べきれないほど大量に韮が余った。
韮を大量に食べる料理を知らない。
仕方ないので当店のオリジナル醤油「醤次郎」につけておいた
その内に何か使えるだろう!と…
開けた見たら韮のいい香り(好みによる)がついていた
韮の薫りの冷奴がちょうどいい、

当店の料理は、お好みに合いませんが…どうぞ自由に調味してください

魔子様に怒られそうだ!

三連休

梅雨は開けていない。
いや始まったばかりなのに…
こんな暑さが、いつまで続くのか…
盛岡が、東京よりも暑いなんて…

いつも、そうなのだが…
雪が降り始める初冬。
暑さが厳しくなる梅雨明け。

この時期は、客が減る。
まだ身体が慣れていないから、外へ出るのが億劫なのか…
食欲が変わるのか…

”今日も暑い”と思いながら、レジに立つと

朝8時から営業していると、知れ渡ったのか…
暑さを逃れて、朝早く買い物に来る

嬉しい!

しかし、立て続けに万札を出された。
給料が出たのか…
ボーナスが出たのか…
「連休用に千円札を用意して置いたのか?」と聞くと
「つい、うっかり忘れた」と魔子様
「忘れた」と言えば、許されると想っている魔子様である
金融機関はあと2日は、すべて休み。
早朝で両替してくれる店も開いていない。
財布の小銭を出し、眞子さまの財布、配達用の財布、梅さんの財布
財布という名のつくものはすべて点検して、もうナイフ(オヤジギャグ)

千円札をすっかり吐き出して、張り紙を出した。

本当は「千円札」ではなく「売上」と書きたかったのだが…

店は売り上げが不足して
大地は水分が不足して…

と思ったら豪雨がやってきた。
店に避難してきたのだろうか…
コオロギが商品の上に止まって動かない。
「ゆずこしょう」なんて辛いぞ!と声をかけながら
水を飛ばしながら外を通る車を眺めた。

 

連休初日は、異常に客が少なかった。
材木町の夜市も、静かだったと言う

この連休はダメか…
国は、連休を多く作れば、観光地に金が落ちるという図式なのだろうが…
出かけられた街の中は、ガラガラである。
朝、雨が降って出かけるきっかけを失い、その後晴れるというパターンが
街中の施設や、都市近郊のイベントにとっては都合がいい

そんな都合のいい天気に何日なってくれるのか…

連休二日目は、晴れていた朝が一転豪雨となり、午後まで続いた。
大雨警報である。極端な天気が続く

遠隔地には、どこにも出かけられない
おかげで家族連れで、食堂が引きも切らない。
テーブル席は満席である。
慌てて羽釜で、ご飯を炊くも…
間に合わない
そして炊き上がった頃には、客はいない。

連休三日目はどんな展開になるのか…

盛岡は面白い

友人から面白い物をもらった

木目を活かした魚の形の板だが…
使い方に寄っては色々と使えるらしい

友人は、これにグラスを置いて「コースター代わりにどうだ?」と言う

障害者施設で作ったという
使う人のアイディアで様々に変化する
多分、多くのものは作っている人、売っている人の自己満足で使用範囲が決められるが
買った人が、自分に合わせて使いこなすというのも「あり」かもしれない

 

その友人が呑みに行こう面白い店があると言う
その店は「喫酒」と書いてあるが、朝ごはんもやっているという
そして土日は朝の6時から始めていると言う

行ったら「閉店しました」と言う
土日は朝の6時から営業しているから4時で閉店だという
平日も6時から開けていたが客が入らないので10時からにしたと言う

なんとなく自分が決まった時間に開店し、閉店しているのを恥ずかしく思った
そして底のテーブルやオリジナルの甘酒の商品の瓶もネットで取り寄せたという
八戸の農家の人で自家米と麹を使った商品を作っているという

もう一軒行った。
それは「ビートルズ」という名前の店だ。
これはもうライブハウスだが…
同世代の団塊の世代の人がやっている
古いレコードを掛け
「当時はソノシートがあったね…」というと棚から出してきた
「これ!」驚いた。秋田の人だという

そういえば今、はやっているパン屋は青森の人だと言う
様々な人が様々なところから、盛岡を目指す
異口同音に彼らは言う
「盛岡が面白い」

角を曲がれば、さまざまな小さな店があって…
それがさまざまな自由な発想で物を作り、物を売っている
そんな街は、ありそうでない。と友人は言う

盛岡は面白い

 

予算は余っている

驚いた。こんな記事を読んだ

AKB沖縄総選挙に「国費2800万円」
河野太郎議員がブログで問題視
「戦略、目的などを詳しくチェックする」

「一発勝負でAKBの総選挙をやって、8000人を呼び込んで、それが次にどうつながるか、はっきりした見通しもない」など厳しく批判しました。

 6月17日に開催を予定していたものの、悪天候により中止になった「AKB48 49thシングル選抜総選挙」。同イベントの開催にあたり、国から多額の交付金が使われていたとして、自民党の河野太郎議員は7月6日、自身のブログで「問題は大きい」と言及しました

河野議員によれば、今回のイベント開催に使われた“国費”は合計2800万円。うち2400万円が総選挙の会場設営費などに、400万円が総選挙 前に行われたミニライブ・トークショーなどに使われたとのことです。いずれも政府が割り当てていた「沖縄振興交付金」からの支出となっており、「閑散期に おけるAKB総選挙の沖縄開催が、沖縄観光の発展に資する」という理由で、「県外からの観光客数8000人」を成果指標に交付されていました。 しかし、これうした使われ方について「一事が万事こういう使われ方をされているならば問題は大きい」と河野議員。AKBの誘致が目的であれば、来 年度以降のAKBの沖縄公演の日数や回数を成果指標とすべきであり、「補助金をもらってイベントをやるだけならば、持続的ではない」「一発勝負でAKBの 総選挙をやって、8000人を呼び込んで、それが次にどうつながるか、はっきりした見通しもない。そもそも今日までにこの8000人が達成されたどうかも わからない」と、交付金の使途について厳しく指摘しました。また今後は「自民党の行政改革推進本部として、このソフト交付金の使われ方、その戦略、目的な どを詳しくチェックすることにした」と、詳しく追求していく姿勢も見せています。

〜〜〜〜〜〜〜ここまで引用
そもそもAKBとは何かもわからない?
総選挙というのは何を選ぶのか?もわからないオジンだが…
要するにイベントに多額(小生の感覚)の国費を使っている。
それが沖縄の観光振興目的であると言う
税金の使い方は、これでいいのか?
小生が22〜3年前に産直を始めるときに
「新しい産直施設には補助金が出る」と言われて行政にのこのこと出かけていった。
門前払いだった。
「あんたのように何箇所の市町村の生産者を集めて開く直売所は対象にならない。
市町村の単位で上がってきた案件なら、1億でも出すが…」と偉そうに担当という人に言われた。
なるほどそんなものか…
それ以前に役場とかかわることは殆どなかった。
せいぜい婚姻届と、引っ越しのときに住民票を取りに行く程度だったのである。
その後「合鴨フォーラム全国大会」を岩手で開催したときにも
「予算がない。年度の途中だから、来年度の話ならいいが…」ということで金銭的な補助はほとんどなかった。
そんなもんだろう。と思っていた。
まぁ補助金をもらうと「後で提出する報告書が大変だ」と聞くので、補助金とは縁のないところで生きてきた
いちど「これは補助金をもらえる」という企画ができて、今までの考え方を直して…と提出したら、ものの見事に落ちた。
行政と思考の回路がちがうのかもしれない。

疑問があるのは
多額の予算を使用して大きなイベントを企画すれば、大きな効果があるのか?
そもそも、イベントは、今も効果があるのか?
店を開店当時、さまざまなイベントをやった。「コーンフェステバル」「アップルフェアー」農家の訪問等々
そのたびにマスコミが取り上げてくれ、人がきた。”単純にものを安くして買いやすくするだけだが…”

今は、毎週のように…いや毎日のように…
どこかで…誰かが、
大きな…ちいさな…イベントをやっている
イベント自体に人が、集まらなくなってきている
それなのに予算がつく。予算を消化しないといけないのが目的だろう
予算は余っているのだ

あいがも

軽米の古里がやってきた。
町名といい、名前といい、いかにも地元の人と言う名前だ。
軽米町は、その名の通り軽いコメが取れるところだと聞いたことがある。
なんでも土壌のせいで軽くなるというのだ。
米は千粒重と言って「1000粒で何グラム」と言う重さの基準がある。
それによって充実度を判定するという。
酒造好適米という酒米は25gから…飯米は20g前後
酒米は削るから重い米でないと耐えられない(?)のだろう

ところが岩手最北端の軽米町で作る米は、軽くなるという。
いったい、どれだけになるのか?

 

その軽米町の古里との出会いは、もう20年ぐらい前になる。
ひさしぶりにやってきた古里は、顔が丸くなっていた。
「随分、楽してるな〜」と声をかけた
「楽してないですよ。ステロイドでむくんでいるのです」と言う
「なんでステロイドなのだ」
「免疫性の難病なのです」と言う
喘息だと思って医者にかかっていたが
大病院で調べたら血液の免疫が落ちて喘息のような発作を起こす難病らしい。
よく「アレルギーだったので無農薬農法をやっております」という農家がいる
彼もそういうわけではないが、20年前から県北部で独りで「無農薬の合鴨農法」に取り組んでいる

彼とは、栃木で行われた稲作研究会で出会った。
岩手県出身者はほとんどいなくて、ぽつんと一人いたので声をかけたのだ。
それから生産や出荷も、西根町や玉山村の連中に混じってするようになった。
その彼とは長い年月の付き合いである。
今は片道2時間ぐらいの場所なので、ジャム用のブルーベリーを持ってくるしか取引はない。
彼は言う「そういえば最初はチェリーバレーでした」

合鴨農法は、九州の古野さんが有名だが、本当は富山の置田さんから始まった。
MOAの信者だった置田さんは、教祖の岡田茂吉に
「これからは安心して食べるものが無くなる。安心して食べられる物を作りなさい」と戦後に言われ無農薬・無化学肥料で稲作を始めた。
ところが一番の悩みは雑草だった。水性雑草は田んぼに水を張るとあっという間に広がる
毎日草取りに疲労困憊して家の池で休んでいると、鴨が雑草を食べる姿を見た。
「これだ!」と彼は気づいて、田んぼに合鴨を放し始めたという。
そこへ「田んぼで合鴨を放して除草している」と聞いた九州大学農学部を卒業して家業の農業を継いだ古野さんが学び、電気柵を考案して一挙に広まった。
岩手には、横浜の米屋中村商店が持ち込んだ。
安全な米を扱い、また自分でも作る中村社長のアンテナに引っかかり、それを福島の熱塩加納村に持ち込んだのだ。
その中村商店に「岩手でも是非に」と願って
自然循環農業を標榜する”いわて手づくり農場”が、岩手で最初に取り組んだのである。
今でこそ無農薬の米は、当たり前になってきたが、当時は「無農薬栽培」できないと言われていた
最初に始めた置田さんの宗教心と、古野さんの飽くなき探究心が合鴨を全国区にして
岩手では横浜の中村商店と、滝沢村一本木にある”いわて手づくり農場“がおおきな役割を果たしたのである。
もう25年ぐらい前のことである

合鴨のひなを入手するのにできたら岩手で探せないか?と探したことが有る
それが田野畑村にある食用の合鴨の育成場だった。そこの品種は“チェリーバレー”だった。
合鴨は、鴨とアヒルの掛け合わせなので合鴨という。
チェリーバレーは合鴨と言っても、アヒルが勝った真っ白な合鴨である
食用として選抜されただけ有って、食欲旺盛ですぐ大きくなり、稲を倒して歩き使い物にならなかった
それ以上に田んぼに使用後、肉にするのにどこでも潰す方法がわからなかった。
ようするに水鳥なので細やかな水を弾く羽毛をきれいに取る技をわからなかったのである。
殆どのと畜場は、鶏ばかりで簡単に羽が抜けるのである。
そんな苦労を様々しながら、そして田んぼに放した合鴨を野犬や狐の餌になったりで、絵になるのでマスコミの話題にはなったが大きく広がらなかった
当時やり始めた農家を支えたのは、横浜の中村商店が買い支えたからである。
それが中村社長が亡くなった今でも続く。20年以上になる。

仲間のその後の消息をきき
「息子が跡を継いだ」と言うホッとした表情の古里は、月に一回病院に来ると言う
30歳ぐらいの働き盛りでであった古里も、もう55歳だという
歳月が過ぎた