ちいさな野菜畑

ちいさな野菜畑ブログ

誇り2

「日野岳唯照は敵だ。宿敵だ。そして難敵だ」
そう思い始めたのは、ここ2〜3年だろうか

ちいさな野菜畑ができて23年。付き合いを初めて20年にもなる。
「留学生との花見が、お寺である」と聞いて、
中学に入ったばかりの長男を連れ、英語を学ぶきっかけになればと出かけた、
そのときに倒れかかった本堂の濡れ縁で、煙草を吸ってる作務衣姿を思い出す。
大体が、お寺で留学生の交流会?というのが引っかかった。
その他にも「インディアンの団体を泊めて、えらい問題を起こした」
とも聞いた。”面白そうな寺だ”と耳にあった。
その後、誘われるまま、色々な会合が専立寺で行われていたのに顔を出した。
「豊かな食べ物を求める会」「学校の先生たちの勉強会」
「三陸の海と放射能を守るかい」「子供の教育を考える会」
たぶん、その他にも様々な会が、ここ専立寺で開かれていた。

ちいさな野菜畑できて三年目ごろ、新しい取り組みを企画した。
農家と市民が、農産物と食を通してつながる「身土不二いわて」という会だ
「しんどふじ」は、「地元のものを食べることが体にいい」という
”東洋の食哲学の言葉”だと、どこからか聞いた。
その身土不二の会を、農家と市民の関係性のなかで、つくろうとしたのである
一番最初に声をかけたのは、岩大の教授であった栄養学の鷹觜テル先生である。
鷹觜先生は「山梨県の棡原の長寿食」や宮古の重茂半島の海藻たっぷりの食事で「地元の食事を取ることが体にいい」と言っている先生だ。
その先生に代表の就任の電話をお願いすると、高齢の彼女は見ず知らずの小生に「やります。ぜひやります。私が提唱してきた身土不二の会は私がやりたい」
という。「身土不二」という言葉に大変な思いを持っていた人であった。

 そして次は、日野岳唯照である。
「身土不二岩手の事務局の場所を…」というと彼は
「身土不二の会は、自分が作っている会だ」という
「会員は、何人いるのですか」
「ひとりだ」
なんと彼は、一人で身土不二を実践し学んでいたのであった。
彼は嬉しかったのだろう。両手を上げて事務局の提供をしてくれた。
そして「身土不二」は東洋の食哲学ではなく
「しんどふに」と呼ぶ”仏教の言葉”だと教えてくれた。

そんな身土不二の会を立ち上げると、旧知の佐賀県の農民作家山下惣一は
「身土不二の由来と意味をかきあげたい」と言って
「一緒に韓国から、中国へ行かないか?」と行ってきた。
しかし、小さな店を営んで毎日のように生鮮野菜を扱っている身としては。
店を開けられない。
まして住職は、いつ葬式で呼び出されるか、わからない日々である。
そんな山下惣一は帰国後、「身土不二の探求」を著し、住職を取り上げている。

そんな身土不二の会で、さまざまな農家と市民の共同企画を取り組でいると
合鴨除草を研究している鹿児島大学の萬田教授から
「身土不二いわて」で20世紀最後の全国合鴨フォーラム大会を…
という話が持ち込まれた。
それは岩手の市民と農家の協同企画で全国から人を集める大イベントだった。
それまでの農業のイベントは「行政や農協が仕組んだ企画を実行する」
というスタイルだったが、実際は農家が手伝っているという企画だった。
これは、行政も農協も応援に回り、農家と市民が作り上げる企画だった。
温泉を貸し切って開催し、500人を集めて成功に終わり、
ある若い農家は「自分たちだけで、できるなんで…」と感動をしていた。
ユニフォームのない貧乏企画だったが、当日に赤いエプロンが間に合った。
今になって考えると日野岳唯照は、赤いエプロンを身に着け壇上に上がった
現役の僧侶が…
しかし、彼はひょうひょうと面白がって、楽しんでいた。
今にして思えば、大変失礼なことをしたのかもしれない。
その後、僧侶も参加した企画と新聞でも結構話題になった。

そして、そのころ哲学者の内山節さんの本の読書会「哲学寺子屋」を始めた。
それまでお寺の僧侶間の勉強会は色々と行っていたが、
日野岳唯照は民間との勉強会を開きたかったようだ。
とりあえず「これをやりたかった」と嬉しそうに語った顔を思い出す
それが今専立寺の、内山節を呼ぶ報恩講へと続いている。
月に一回の「哲学寺子屋」だったが、長く続いたこともあって
次第に惰性に流れ、参加者も少なくなり、昨年取りやめた。
月に一度、日野岳唯照の顔を見ることが嬉しかったのだが…

しかし、ちいさな野菜畑も
ここ数年道の駅の増加と量販店のインストア産直が増え
売上は減少に転じた。売上を伸ばす事は容易である(利益を出すのは難しい)
売上を減少しながら、経費とのバランスを取るのは至難の業である。
悪戦苦闘の毎日をすごしていると
経済のことなどわからない坊主に相談をしてしまった。
彼は言う「やめたら」そして口を続けて「やめたら」としか言わない
「このくそ坊主。経済や社会のことなんかわからないお前なんかに相談しない」「坊主だってカネを稼いで生きているのじゃないか?」
とそれ以降、仲間ではなく「敵」に変化した。
そして坊主の前で「愚痴は言わない」と
佐藤淳一先生と清水マスターの主催する「寺子屋ライブ」は冒頭に
日野岳和尚の本物の坊主と、野菜畑の偽物の坊主との対談がセットされている。
それは噛み合わない対談だった
「人生は、たのしくやろうぜ」という本物の坊主
「地方経済は落ち込み、疲弊している。そこで何をどう考えるか?」
という偽坊主の対談である
そして「わかりにくくて深い話」本物の坊主と
「わかりやすくて、そこの浅い話」偽物の坊主の応酬である
それも16回を数え、もうできなくなった。

昨年の9月、家内に余命八ヶ月の病気が見つかった。
専立寺に駆け込み500ミリリットルの缶ビールを3本あけ、泣いた。
手術だけをして、店を閉めることを決断した。
あとは余生だ。楽しんで生きていこうと思った
ふと住職の言葉を思い出した。
「面白い、楽しい、」
そのときに初めてわかった
「人はみな死に向かって生きているのだ」とわかったふりをして喋っているが
死に向かって生きていれば、楽しいほうが良いに決まっている
難行苦行を乗り越えて生きていく人生が、人間の生き方なのか?
それに気が付かされた。
日野岳唯照は、死を超えて向かっていく方向を示していたのである。
「人生なんて面白くなければ、意味がない」と
かれと付き合って長い年月があった。
かれは一貫して、さまざなことに面白がって取り組んできた。
しかし、それは勇気のいることだろう。
宗教家として、それを貫き通すのは至難の技だったのかもしれない
 尊敬している檀家の佐々木篁さんが亡くなったときに、彼は枕経をあげた。
遺体の前に座り、じっとしていた。ふと気がつくと、肩が揺れている。
泣いているのである。
僧侶が、遺体を前に泣くということがあるのか?
熱い男である。
情のある男である。

小生は専立寺とのつきあいの20年の間に何回も中央病院に入院をした。
病院の6階の面会ホールから朝日が登る岩山が見え、
その下には、専立寺の丸い屋根が見える
いつも朝早く起きて、朝日を拝み専立寺の屋根を見た
あの丸い屋根の下には、日野岳唯照が作り上げた世界がある。
そして、その関係性の世界が朝日の光の中で広がる。
専立寺の檀家となって、誇りに思う
そして日野岳唯照としりあって、誇りに思う。

(日野岳唯照の葬儀のときの弔辞を元に
書き留めたものである。一度書いて残しておきたかった。)
そろそろ一周忌の準備だ。
10月5日は、豊かな求める会の和尚を偲ぶ会だという。

いとパンⅡ

常連さんは、ブログを書いても書いてもコメントが無いと、
「どうしたのだろう?」「あの人は今?」という形になるが…
初めてコメントをくれる人には、びっくりすることが度々有る。

数年前に「トラ子とドラ子の同居人」という名前でコメントがあった。
トラ子は”入道の独り言”を丹念に読んでいるらしく
「前に、こんな事が書いてあった」と指摘される
「覚えがない」と返事をすると
「何月何日に、こんなテーマで…」
脱帽である。帽子だけでなく頭ごと脱毛した。
どうやら夫婦で読み込み、書き込んでいるようだ。
ある時から、ふとコメントが途絶えた。
風のうわさで、トラ子がで亡くなり、看病していた同居人も
張り合いが亡くなったのだろう。書き込みも消えた。
(「風のうわさ」も大きな出会いが会った)
しかし、その噂で”トラ子”は、小生の高校の同級生だったということが判明し、
50年ぶりのブログでの出会いに、驚愕し、驚き!恐れおののいた。(?)
ブログには様々な出会いがある!


今回のブログの出会いは、三年前に書いたブログ
いとパンである
これは、伊藤誠逸さんという若き癌で亡くなった高校の友人を偲んで
親友が作った追悼集をもらった時のブログである。
東京に住んでいる彼は、高校の仲間と会う機会が無い。
また広い東京で同郷の人や、関係性の有りそうな人という付き合いも無い。
「これを、ちいさな野菜畑に、置いてくれ」
「興味がある人がいたら、上げてくれ」
と言って東京へ帰っていった。
多分、顔の広い、態度のでかい、太っ腹で、大胆に失敗する入道なら
”誰か配る人がいるだろう”と想ったのだろう。
ブログを読んで、ポチポチと取りに来た人がいる。
ブログを読んでいなくても、
小さな縁(同窓生・同じクラブ等)を見つけては、配って押し付けた。
そんなことを、すっかり忘れていたが…
突然、問い合わせが来た

お問い合わせ内容:
突然のメール失礼致します
『入道の独り言』2016年1月1日記載のいとパンを読ませていただきました。
懐かしい”かたくりの花の写真”を見て、びっくりしました。
記載の文にある『いとパン』こと故伊藤正逸は、父の親戚なのですが、
貴殿の優しい文章に厄年で早世した名前を見つけ、
本当に驚き涙にむせびました。追悼文集が発行されていたことを知り、
なんとか連絡をいただけないかとこちらの方に書かせていただきます。
亡き正逸は歳の離れた兄弟のような関係で、
父は今でもかたくりの花の写真を大事にしております。
そんな父も今、癌と闘病中です。
それで、不躾なお願いなのですが…
お手元にまだ『伊藤正逸追悼文集』をお持ちでしたら
是非お譲りいただけませんでしょうか?
突然のお願いのメールで大変恐縮しておりますが、
どちらで買い求めたらよいかもわからず、
発行元も全くわからないので貴方様を頼りにメールさせていただきました。
お忙しい中申し訳ありませんが御返事頂けたら幸いです。

驚きである。
昔のブログからこんな縁が広がるのだ。
これがネットではなく、個人の書き綴った日記なら、こんな広がりは持てない。
読まれることの恥ずかしさと、突然の未知の人との出会い、
それがネットの良さなのか…
一生懸命に書かなければ…と、
書き込みをサボっている入道の反省しきりの早朝であった。

誇り1

たぶん子どもの頃、このあたりを駆けずり回って遊んだだろうと思う
岩手山が優しく見下ろす盛岡の鬼門と言われる北側の一角である。
お寺からは、にぎやかな音楽と喧騒が流れてくるが、
町中にあるのに、何軒ものお寺の共同の墓がある閑静な場所である。
そんな場所に、まんじゅうを伏せたような墓石の墓がある。
こんなところに眠っていたのだ。先代の住職は…
隣には「朴」という(韓国の女性だろうか…男性だろうか…)
墓と並んで立っていた。
倶会一処という墓を作り、生前の会費制で、誰でも入れる会を作ったという
そして身元不明の人など役所の要請で誰でも受け入れるという
アメリカ原住民を泊めて一騒動おこした住職らしい場所である。

先代の住職の墓石には、掘った名前が消えているのだろうか…
もともと名前なんか掘っていないのだろうか…
墓石を隅々までみても。それらしいものが無い。
しかし、その変わった形を見れば。それが専立寺代々のお墓とすぐわかる。
そろそろ1周忌がちかい。木枯らしが吹く11月だったから
盆明けの8月も末は、秋風が吹き始めるころなのだが…
まだまだビールの美味しい暑い夏の最後
「大菩薩マーケット」と言うお寺の行事にしては
にぎやか過ぎた行事だが、これが最後のマーケットだという音楽が
墓場に響いていた。
おもえば先代の住職も、変わっていた。
昔は、人が集まるところがお寺だった、と言っていた。
「寺は部落の…村の集会所だ」と
変わったお寺だったが、変わった住職だった
それに魅せられたのかもしれない。

熱力学と経済(?)

猛暑日になるという。
魔子様は、日課のウォーキングから戻ったら
「外は暑いね」と汗を拭った。
庭の木立を抜ける風は爽やかである。
木々をわけて室内に流れてくる空気は、葉から冷気を取ってくるのだろうか
家の中に入り込む風は、冷たい。

そんなとき、ふと考える。
外の暑さと部屋の爽やかさと…
その温度差が、どこから出てくるのか?

ある科学者が言っていた。
世の中に絶対に正しい法則(?)は一つだけ
「熱力学第二の法則だけだ」と聞いたことがある。
熱力学第二法則というのは、熱は高温から低温に移る(?)というものらしい。
そういえば低温から高温には移動しないし、温度も自然には上がらない。
当たり前だ!と思うのだが…
どうやら、そういうことをきちんと、言葉や文字で証明するのが科学らしい。
 話が飛んだが、外出からもどって家に入ると太陽から遮断され
太陽の熱(輻射熱)を浴びたものから、熱を放射され体が熱く感じるのに、
家の中は太陽から遮断された空間のために、ひんやりと感じる。
それだけではなく、家の中を通り抜ける対流熱は、体から熱を奪う
なるほどだから、熱力学第二の法則絶対的真理なのか…

そんなことをふと考えると
時の政府は経済第一というが、経済という仕組みは不思議だ。
経済とは、明治のときに経世済民から福沢諭吉がとったという話がある。
経世済民とは「世をおさめ、民をすくう」ことから来ている
それがいつの間にか、金の流れを円滑化することや、金を使うことに矮小化されてしまった。
本来、ものの流れを速やかにして民の暮らしを助けるべき仕組みの補助が、
貨幣であるのに…
貨幣を集めて大量に動かすことが、主眼になってしまった。
兌換紙幣である貨幣の価値を高めることが大きな意味を持つことになった。
そこにあるのは変わらない価値をもつ貨幣への愛である。

熱が高温から低温に移るように…
経済とは、民をすくうために、物の移動やサービスをすみやかにするべきものだ
そのために有るところから無いところへ速やかな移動のための貨幣だったのだ。
それが人々の移動を拒む貨幣愛に、経済の問題はあるのかもしれない。



最後のお願い

最近聞き慣れない外来語ばかりになってきてしまう
聞き慣れないだけなら良いが、覚えられない、それが問題だ。
老化と言いたくないが、時代についていけない
外来語を、いちいち検索しないと理解できないが、
検索してもリノベーションとイノベーションの違いがわからない
というか「日本語で言えよ!」という感覚だ。
だんだんと、”あちら”と一緒で機能不全に陥ってしまう。

以前に誰からか聞いた。
「盛岡でパフィーをやるんだってよ」
「なんだパフィーて、歌でも歌うのか?」
昔はビーナッツとか、スリーグレイセスとか、女性のグループと想像ができたが
最近は名前から想像できない、これは創造力の欠如か?
なんでも市民公募のコンパだという、
皆で呑むのか?と思ったらコンペだという
コンパとコンペは何が違うのだ。
わかるように言え!と思う今日このごろ。

で、ようするに岩手公園の中に芝生を削って土産物屋を作るという話だ。
なんでもファッション業界のブランド・メーカーという。
そんな現代のメーカーは知らない。
昔、服飾メーカーといえば
レナウンとか、小杉とか、樫山とか…
婦人物では東京ブラウスとか、ニコルとか、ファイブフォックスとか
丸高衣料とか、サトウニットとか、東京スタートとか…
要するに昔、若いときに付き合っていたアパレルメーカーだが…

と言ってもこれは若者の選択である。
目先の売上の話は、年寄りでいいが…
町のあり方を変えるというのは若者である。
そして20代30代の若者が、自分の子供達にどんな盛岡を残していくのか…
新しくものを作って変えるというよりも
変化の激しい時代、先の読めない時代
子どもたちのために孫たちのために何を残すべきなのだ?
そんなことを考えないと、ただ目先のことだけで
後悔をのこすことになる
そんな思いを持ちながら、
スピーカーを鳴らして走る街宣車の「最後のお願い」を聞いた。

しかし、大胆だね。岩手県民だったらあそこに建てるという発想はできない。
いやあそこで、ものを売るという発想はできないだろう。
最近、何でもありの時代であるから仕方がないのか…
ただ、若者はどう想っているのか?
以前、ショッピングモール設置の意見交換会で
ある若者が「反対すると盛岡は遅れてしまう」という意見があった
まさに今、遅れないで皆と一緒、一斉に同じ町並みになってしまった。
岩手公園の芝生でそんな展開をすることが、岩手らしさにつながるのだろうか
同じ失敗をしてはいけない

百日紅

庭の百日紅

「庭の百日紅が満開である。」
と言う
「どこが…」「どれが…」
庭の木々を見て皆が問う

百日紅は、昔、と言ってもそんなに昔ではない。
戦争が終わって40年も経った頃だ。
戦争と言っても日露とか日清ではない、先の大戦だ。
つまり昭和の末期ごろ鎌倉の極楽寺に行って、
初めて百日紅という木の名前と、その由来を知った。

百日紅は「さるすべり」と呼ぶ。
木肌が滑るように木の皮が剥げてつるつるのように見えるのである。
まるで猿が滑り落ちるような木肌である。
そして真夏の盛りに真っ赤な紅色の花を長い間咲く。
百日も咲くかのように…
極楽寺の百日紅は、低木のこんもりとした百日紅だった。
そんな木になるだろうと庭の片隅に植えていたが、
いつの間にか、ヒョロヒョロと仰ぎ見るような木になってしまった。
植物というのは、太陽を求めて背が伸びるらしい。
十分に陽光が当たる環境にあると、まんべんなく成長するが
陽光が少ないと、太陽を求めて高く高く伸びていくらしい。
そんなわけで、狭い庭で木々に囲まれた百日紅は、上へ上へと、伸びた。

今年の紅は、鮮やかである。
青空によく映える。

護美箱

母屋がある。
母が暮らしていたところだ。
いま母は施設でタンスが一個とベッドだけでシンプルに暮らしている
暮らしていた母屋の片付けが大変である。
何十年前のものが、積み重なってある。
母親に聞いても無駄である。
何を言ってもニコッと笑うだけである。

仕方がないので魔子様と一緒に片付けている。
片付けないと、後が入らない。
片付けると言いながら、ゴミ処理に出すのだが、
ゴミ処理が細分化されて、まごまごする。
「ほら”プラ”と書いてあるでしょう」と言いながら
「それは汚れているから、生ゴミよ」と指示される
全く最近のゴミ出しは、難しくてわからん。
人間のゴミは、簡単に見分けられるのだが…?

魔子様の東京の下町の実家などは、間違ったゴミを入れると、
ゴミ袋を開けて犯人を特定して追求するという。
そこまでは行かないが「あそこのうちは、だらしない」と言われるのがつらい。
と言いながら「これぐらい良いか…」とちょっと舌を出す。
しかし、新興住宅地などは町内会などに若い人が顔を出さないという。
そして町内会のゴミ当番もやらないという。
それでは、コミュニティはできるのか?
街の中が汚いと言って、行政にすべてやらせるのもコストが高くなるだけだ。
と言いながら自分も最近になって町内会長が誰か、見分けられるのようになった

しかし、紙と木と食べ物だけがゴミだった時代が懐かしい
その頃は「護美箱」だったのだろう
江戸末期や明治初期にきた外国人は、驚嘆したという
あまりにも、整然とした田舎や町を見て

「日本人は質素だが清潔であった」

軽くて安価なプラスチックなど素晴らしいモノを生み出しながら
その簡便さと大量生産で、我々は、川を森を海を汚してしまった。

長寿食

昔の話だ。

最初に盛岡に連れてこられたのは、小学校4〜5年ごろだった。
北上に住んで、盛岡で働いていた父を訪ねた。
そのころは、あくまでも自分の意志ではなく、連れてこられたのだ。
そして大学の夏休みを利用して、初めて自分で盛岡に降り立ったのが20歳ごろ
盛岡で”食事をしよう”と自主的に考えたのは…
その頃か…そして周りを見渡した。
「焼肉 冷麺」という看板をあちこちで目にした。
”ふ〜ん、年中冷やし中華をやっているのだ”と、不思議な気持ちで見過ごした。
初めて冷麺という言葉を認識した思い出である。


群馬県高崎の学生時代はカネがない。
いつも焼き肉を食べに行っても、学生向けのホルモン食堂ばかりであった。
網の上に山と積まれたホルモンを、生焼けで争うように食べた
そして腹にたまる大盛りライスで腹を満たした。
 だから冷麺を食べたのは30代はじめ
商社を辞めて盛岡に帰って来た頃だ。そのころ「平壌冷麺」と言っていた。
酒を、しこたま呑んだあと、仕上げに食べるものだった。
冷たい牛のスープ。牛骨はスープにならない、と聞いたことがある
唯一、冷麺のスープにはなると…
その透き通った冷たいスープは、まさに冷製コンソメスープで美味しかった。
そして麺は、ゴム紐のように噛み切れない長い長いものだった。
デンプンだといい、片栗粉だといい、噛み切れなくても消化に良いと言われ
飲み込むように流し込んだものだった。

農業の世界に入った40代、韓国に行った。
韓国自然農法研究会のチョウハンギュさんと同行して
韓国の農家を回りながら、田舎をバスで周るという1週間だっった。
泊まるのはケバケバしたラブホテルのような田舎宿
そして食事は田舎の食堂や、ドライブイン。
焼き肉を期待して行ったのだが、出てくるのは野菜料理ばかりだった。
それも途中で道端に生えているような、
立ち小便のときに、めがけた草がいっぱい出てくるのである。
韓国人は、肉よりも野菜をよく食う。
そして冷麺は、ぜんぜん出てこない。
研修の最後の頃に行ったドライブインで、ようやく出てきたのは
真っ黒い汁の少な冷麺だった。
本来の韓国冷麺は、蕎麦冷麺なのであった。

盛岡冷麺を作った友人が「これ食べてみて」と言われてだしたのは
桑の葉を練り込んだ桑の葉冷麺だった。
韓国で食べた蕎麦冷麺を思い出す、細めの硬めの冷麺だが
スープと澄んだ麺は、彼一流のこだわりが感じられた。


桑の葉は血糖値を抑制するという岩手大学の鈴木幸一教授の研究もある
しかし、食間に飲めという
つまりお茶などで飲むよりも、そのまま食べたほうが良いということらしい
当店も桑を練り込んだひっつみや、中華麺などを開発している。

三者面談

久しぶりに、ぬか漬けを漬けた。
人参と、大根と、もう一つは…内緒だ。
店をやめて、毎日のように片付けばかりしていると、糠の手入れが怠ってしまう。
塩で蓋をしたぬか床に、最初はキャベツを漬けて、捨て漬けをする。
それを取り出して、ついでに厚削りの鰹節と、だし昆布を切り刻んだものを取り出して、新しい糠をいれ、二晩、冷暗所におき、取り出す。

ぬか漬けは、堆肥づくりと一緒ではないか?と考えている
堆肥は、牛糞や豚糞・鶏糞など動物の糞尿をベースにして作る。
そこに、木くずや稲わら、米ぬか、籾殻、など粗いものを混ぜる。
様々なものを発酵させるには、嫌気性菌と好気性菌をバランス良く活躍させないといけない。つまり切り返しという、かき混ぜる行為は、嫌気の状態から好気の状態に変えてやって、バランスをよくする作業なのである。
切り返しをしないと、どちらかの状態が長く続き偏った微生物だけが増える。
バランス良く増えることが、良い堆肥を作ることだ。と教わった。

ぬか漬けも、同じことではないか?
あまり水分が多いと、水分を取れという
乾いた状態だと、野菜を入れろという
理屈をキチンを教えていないのは、そんな発酵の技をわかっていないからである
毎日かき回せ!というのも嘘ではないか?
上から押し付けて、というのも胡散臭い。
ぬか漬けは、嫌気性発酵の酸味と、好気性発酵の香味がバランス良くできているのだから、入れるものと、かき混ぜて寝かせる時間と、ぬか床との三者の対話である。、

そういうわけで、冷蔵庫に入れておいた糠をだし、残り物の野菜を漬けて三者面談を始めた(?)
だいたいが、そんなに漬けても食べ切れないのである。
だから大根なら、せいぜい5分の一本、人参なら端切れ、コリンキーは4分の一だ。(言ってしまった。内緒なのに…)
一つ一つ塩をして、塩梅を整えるよりも、多めの塩の糠に、塩を振らないで漬けたほうが…
と想って、そのまま材料を突っ込んだ、
丸一日、台所の冷暗所に放置しておいた、

これがうまい!

ちいさな発見

いつも珈琲豆を、ミルにかけ、そのままフィルターに落としていた、


よく考えてみれば、わかるのだが…
米も小米を選別して、粒度を整える。
ある程度、整った粒度で炊飯することが、熱が均一に対流するから美味しく炊けるのである。
やすいお米は、様々なものを混ぜ合わせているために粒度がまちまちで、選別などの手間ひまをかけていないために、米と米の間に隙間ができなくて熱が抜けていかない。均一な対流が、おきないのである。美味しく炊けるわけがない。

珈琲の豆も、ミルで粉々になったと思ってフィルターに開けていた、
よく考えてみたら、そんなに均一な精度の高いミルでもない。
一度、篩ってみた。

やはり…
粒の大きなものが混じっている。
これでは抽出するときに、味が均一にならない。
う〜ん。ひとつひとつ確認を取らないと…
丁寧な仕事しなければ…