ちいさな野菜畑

ちいさな野菜畑ブログ

野菜畑をもう一度

”たくさん”から、一枚の絵をもらった。
「そうだ!この絵をサンビルに飾っておこう」と思っていたら、見えなくなった。
片付けの最中に、荷物に紛れ込んでしまったようだ。
仕方がない。そのうち出てくるだろう。
だいたいが紛失物は、ほとんど出てくるのである。
というか、書類に紛れ込んでいるので整理整頓すれば出てくるのだが…

5月末締切の障害者軽自動車税の減免申請期限の書類が、机の上の書類の山から5月31日にみつかり、6月1日に郵送した。
”これぐらい良いだろう!”と思ったが、翌日、市役所から電話がかかってきた。
「届きましたが…締切が過ぎていました〜」
「書類の山に埋もれていたのだっ!」と言い訳にならない言い訳を、してしまった。
当然、相手にされなかった。
普通は怒鳴り散らして粘るのだが、優しそうな女の子なので(声だけ)
黙って引き下がった。こんなことをは珍しい。(泣)

サンビルにある店のものを、自宅に運んでると本の間から出てきたようだ。
魔子様が「間に挟まってたよ」
「何の本だ?」
「たしか発酵の本だったと思うよ」という
今となって、でてきたから良いが、「発酵して熟成したら、どうすんじゃ!」

産直は高い

産直はもう、おしまいだろう。
もう十分に産直の良さも難しさもわかって、成熟期を通り過ぎたような気がする。
もう当初から、野菜畑は主張していた。
岩手の産直は、7月から10月の4ヶ月しかものをふんだんに無い。
だから4ヶ月で、あるだけ売れればいいという発想で経営的になりたつのか?
また直接市民に売ることで、街の八百屋にどういう影響を与えるのか?
結局、街の八百屋が消滅し、農林省が自治体に運営を任せている市場機能も八百屋が消えて赤字である。
そして街なかには「八百屋・肉屋・魚屋・〜屋」というものが消えていった。

残されたのは買い物難民と呼ばれる、車を持たない人々や、高齢化した世帯など弱者の世帯だけが、声なき怨嗟の声を上げ始めている。
ちいさな野菜畑は、最初から市場流通を入れて足りないものを補完しながら相場と農家の間を取り持っていた。

今、多くの人は言う「産直は安くないよ!」と…
日々の相場がわからない農家は「なんでも100円」だったのが、100円が安いと気がついて値段を上げ始めた。
しかし、買う八百屋のいない売れない市場は、どんどん値段を下げ始めた。
だから街なかには、値段が逆転しているものが多々見られる。
産直は高いのである。
良いものが高いならわかるが、良いものを見る目を消費者は持っただろうか?
いや生産者自身が、わかっているのだろうか?
生産者にとって良いものというのは、農協規格や量販店規格に対応しているのが簡単に金になる良いものなのである。
お客と農家は、良いものが違うのである。


野菜畑が取り組んできた「説明して、わかってもらえる良いもの」などは面倒くさいもので、だいたいが多くの人はわかりやすく説明できないのである。

説明して納得して買うものが、日々の糧になるべきなのである。

空いた。飽いた。開いた。

だいぶブログの公開の期間が開いた。
いや書くのに飽いた、わけではない。
なんとなく心の隅にポッカリと空いたのである。

そんな訳で空いた隙間を埋めるべく、動き始めた。
どうやら微動だが、動き始めたような気がする。
今、とりあえず坂の上から大きな石を押したところだ。
ちょっと動いた。今まではびくとも動かなかったのに…

ゆっくりだが残り少ない人生を確実な歩みをしていきたい。
そんな6月14日の朝である。

想い出

鏑木武弥が縊死した。と若い友人から聞いた。
彼女は、わざわざ「カブラキくんを知っている人と話をしたかった」と言って、カウンターに座った。

彼と会ったのは、もう23〜4年前になるだろうか?
病院に二人連れで見舞いに来た。
「ある出版社をやめて岩手で農業をしたい。と言ったら入道さんを紹介された」と言って…
夏に、ちいさな野菜畑を開店し、秋に腰を痛めて都南の整形外科に入院していたときである。
おもえば、そのころから病気とのつきあいが始まったと言っていい。

鏑木は、面白いやつだった。冗談がわかるやつだった。
彼は大学時代、スカートをはいてキャンパスに通った、という
人と違うことをしたかった、という

大飯食らいだったが、酒は一滴も飲めない。
酒を飲んでいる小生のそばで、丼飯を平らげるようなやつだった。
寒いのがてんで苦手で、冬は沖縄に逃亡した。春になると岩手に戻ってきた。
田んぼも畑もやり方がユニークだったが、小生は黙ってみていた。
多くの人がいろいろと指図して彼に言うことを聞かせようとしたが頑として受け付けない。
黙ってみている小生のそばが、心地よかったのか、なぜかいつもそばにいた。
そんな彼が、新規就農資金を借りて返済できない、青年協力隊にいって返済する。と言ってパラグアイへ行った。
帰ってきたときは返済をすっかり終えて身軽になり、種苗メーカーの試験所の助手をやり、父の仕事を手伝うと言って長野県飯田市で会社を設立した。

途中でなんどか会った。順調なときは恥ずかしそうにこんなことをやっている言った。
不調のときは「借金だらけで…」と苦笑いした。

なんとかやっているのだろうと思ったら、昨年、裁判沙汰だと風のうわさで聞いた。
そして昨日訪ねてきた若い友人は、ネットで大騒ぎだという。

http://news.livedoor.com/article/detail/16019512/


いつ変わったのだろう。
こんなことが、できるやつではなかった。
人に迷惑をかけるやつではなかった。

ただただ唖然としている。
想い出ばかりが去来する。
年賀状は昨年、印刷だけのものがきていた。

なにがあったのだろう。
なぜ戻ってこなかったのだろう。
なにも力になれなかったのが、ただただもうしわけない。

もちつき

「賞味期限があるんだ!」
ふと思い出した。
26日に餅の買い出しに来た、おばさんが言う・
「地元の餅を売っているところがない。
なんと言っても正月用の餅が並んでいない」という

そうなのである。ここ数年前から餅に賞味期限がつくようになった。
だから真空包装していない餅は、早くから並ばなくなった。
地元のつきたてのお飾りの鏡餅や、
年末年始は忙しいから早めに…と思っている人たちにとっては餅入手しづらい商品になった。
しかし、コメに賞味期限あるのか?
「できるだけ精米したてがいい」というが、それでも賞味期限はつかない

「餅に賞味期限」
確かに青カビから、赤カビから、カビという黴(かび)が生える。
そんなのは、削ってしまえ!というのは横暴だろうか。
そんな技、そんな判断が、昔はできた。
今、それは他人に委ねられている。
だから3日前にしか餅が並ばない。
松の内に食べ切れる量を買い求めるために…

「鏡開き」という言葉は正月の食文化の言葉なのだ。
鏡餅を「切る」ではなく「開く」という言い方は…
お飾りの重ねたヒビの入った餅を、開いて食べる。
そんな言葉も、ビニールで密閉されたカビの生えない、
ヒビの入らない鏡餅では…ありがたみも薄いような気がする。


そんなことを考えながら…でもないが、群馬県多野郡上野村に行った。

もち米の配達である。
「もち米の配達に群馬県に!」

不思議に思う人がいるだろう。
哲学者の内山節氏の別邸で毎年、12月29日餅つきが行われる。
いつの間にか増えて増えて、「今年は、330kg欲しい」という
群馬県上野村は、コメの採れない山村である。
少量の米なら山村のちいさなお店で買えるが…
大量のもち米は、近くでも販売していない。
それを毎年頼まれているのである。いつの間にか増えてしまった。

夜通し走って、険しい雑木や杉林の山林を抜けていくと数軒の集落があった。
その一軒の二階家である。その庭に、数日経つと全国から人が集まり、二日がかりで餅つきが始まるという

そのついた餅には、当然のことながら「賞味期限はない」
自分たちで判断できる人たちが選択するから…

ありがとう

店を閉めるにあたって、
多くの人から「おせわになりました」「ありがとう」と感謝の声や、
花束のプレゼント、珈琲、チョコレート等々多くのプレゼントを頂いた。
そして「最後に挨拶を…」と言う人達でいっぱいになった。

ふと思う。
単なる売り買いではなく「ちいさな野菜畑」は何を売っていたのだろう。
それは商品ではなく、想いがこもった売り方だったのかも…

 

哲学者内山節は、いう

「私はこれからは、農業にかぎらず、どんな分野でも、商品を半商品に変えていく関係づくりをしていったほうが面白いと思っています。そのことによって、暴力的な力を持っている今日の市場経済を、内部から空洞化させていくことができたら、私たちは今日の市場経済の支配から大分自由になることができるでしょう」
(1998年「農村文化運動148」より)

「半商品」とは、商品として流通はしているが、それをつくる過程や生産者と消費者との関係では、「よりよいものをより安く」というような商品としての合理性(経済合理)が必ずしも貫徹していない商品のこと

多忙 感謝感謝

なんと忙しいことか?
その〜間に合わないのである

なにもかも…

新聞に載ったことだ

盛岡タイムス

岩手日報

一つの小売店が消えていくのに、ニュースになるというのは良いことなのだろか?

その記事を読んでやってきたのが、多くの最後を惜しむお客様と、借金取りである(笑)

ひっそりとしまいにしたかったのだが…

さて今日一日頑張ろう。

明日は、ゆっくり寝られるだろうか?

 

おせわになりました

朝、厨房で準備をしていると、お客のおばさんが声をかけてきた
そういえば、そう見えるが漁家のおばさんスタイルだった
要するに花柄のようなレインコートの生地の上下の作業衣をきたおばさんである
おばさんには失礼だが、小生よりもちょっと年上かな?

そして唐突に「いろいろお世話になったので、これ牡蠣!」
と言って二本差し出した。
そして「山田町から、来たらいつも寄ります」という


「山田町?」「沿岸から?」「いつも?」
「お世話になったと言っても…」と問いかけると
おばさんは、うなずきながらスタスタと出ていった。

若い青年が、やってきた。
「やめると聞いたので…。おせわになりました」という
以前の取引先の営業マンだが…
お世話はあまりしていないが…
なにか感じるところが、あったのだろう
その青年に悪いことをした
一時支払いが滞ったときに、「集金においで?」とひと声かけてやれば解決したのだが
集金は別のボジションだったのだろう、しばらく営業にも来なくなって取引が途絶えた
それを思い出し大きい声で呼び止めた
「営業というのは回収してなんぼだ。できる限りちいさな金額のうちに回収すれば、大きいやけどはしない」
「あのとき集金に来てくれれば、取引は続いたのだが…」
彼は「申し訳ありませんでした」と深々と頭を下げた。

大量に白菜とキャベツを持ってきた生産者がいた
「閉店セールで30%引きをしているが、それでもこの量は売り切れない」というと
「わかりました。いくらでもいいから販売してください」と言って物をおいていった
というと別の生産者は
「おせわになりました。商品を引き取らせていただきます」と言って引き上げていった。
生産者に迷惑をかけないように、当店の手数料から値引きしているのだが、
この対応で生産者の当店との取り組みをどう考えているかがよくわかる。
こういうのが、本音が出るのだろう

 

岩手日報に出た

https://www.iwate-np.co.jp/article/2018/11/28/29794

盛岡タイムスも取材に来た。

こんなちいさな取り組みなのだが、さまざまな関係性の世界が壊れていくのが今の時代のニュースになるのだろう

寿命

いつかこの日が来ると思っていたが…
永久に続けたいと思っていたが…
さまざまなことが引き金になった。

一番大きいのは、友人たちの死と魔子さまの病気だろう。
自分自身は、50を過ぎてから、ずーっと病気がちと言ってもいいほど、病院と寝た(?)

それまでは、怪我や歯痛はあっても、風邪で寝込むということはなかった。
風邪で寝込みたいと思ったことはあったが…
病気がちの一番の素因は、30代後半の「親知らず」だろう
”出張先で痛んだら大変だから”と言われて銀座の歯医者で親知らずを二本抜いた。
それまで歯は、完璧だった。
いやキチンと揃って隙間を埋めていた。親知らずを抜いてから
知らず知らずのうちに(?)隙間が空くようになったのだろう
そこへ十分な歯磨きをしなかったために、歯槽膿漏になった。
そこから「菌」が心臓の弁にくっついたのである。
感染性心内膜炎という。
従来持っていた僧帽弁閉鎖不全症と一緒にして一種一級の障害者になった。

最初の心臓手術のときは手術室の前でストンと麻酔に落ちた。
二回目の胸部大動脈瘤のときには、手術室に入ってストンと麻酔に落ちた。
三回目の食道がんのときは、自分でステンレスの手術台に乗って麻酔が落ちた(?)

三回も胸を開き、その他に化膿性脊椎炎。腸閉塞を二回、白内障。緑内障・歩く総合病院と言われ、ときの県立中央病院の院長に「おまえは友達だ」と尊称された(?)
病歴は長いが、死亡歴はまだない(?)

そんな病気がちの自分が命永らえて、友人たちがあっという間に去った。
一人は若うちから運動をし、スイミングスクールに通い、定年になって歩き回ってリンパの癌になった。
一人は、若いうちにスポーツ心臓になったが、肉を喰らい、タバコをやめずに心臓発作で亡くなった。
もうひとりは若うちから食に気をつけてみんなを指導し、奥さん盲腸で入院していうるときに一人で脳の血管が破裂して亡くなった。

ふと「寿命」という言葉を思い出した。
寿命なのである。
いいえて妙な寿命である。

運命論者ではないが、(いや運命を信じているが…)その時がきたということだろう
店も社会も、変わってきた。
変わることが良いことなのか?は別にして…

寿命なのである。

店を開いたときには、多くの農家が「直接得売るなんて…」二の足を踏んだ。
いまは最初から直接売ろうとして、そんな畑を作る若い人たちが就農している。

流通は細分化して、空を飛び、地をはって、ネットワークをめぐらした。
どんな流通が出来上がるのか?
じっと見守るほかはない。

役目は終わった。寿命である。