ちいさな野菜畑

ちいさな野菜畑ブログ

あすこない

,またAmazonから購入をしてしまった。
しかし、これは仕方がない。
たぶん近くの家電や文房具店で注文してもAmazonにはかなわないだろう

単価ではなく納期である。

今日発注すればあした届く
「明日来る(アスクル)」などというふざけたところもあるくらい
いまの物流は、すごい
30代花のお江戸銀座で仕事していた時
佐川急便の兄ちゃんと親しくなった。
20代前半の彼は、毎日走っていた。
事務所に入ってきても意気を切らしながら駆けずり回った
「そのように会社で教わったから…」と言いながら
「この仕事は続きません。金をためてから将来は別の仕事をします」と言っていた
当時佐川急便のドランバーは給料が高いので有名だった。
そのころから、荷物を出せば明日つくという幻想が出来上がった

それ以前は、荷物はいつ着くかわからなかった。
40年前の20代は、デリバリーの担当もしていた。
要するに商品担当だった。
在庫の確認をして、電話で住所を言い、なに便で出荷するか倉庫やメーカーの直送を指図した・
電話で住所を言うのは至難の業である。今はfaxやメールがあるから良いが、当時は手紙か電話である
急ぐ出荷は、当然電話であるから、笑い話が多々有った。
保々工場」と言う工場があった。
電話で「タモツの保」そして「ヒトビトのひと(人々の)」と説明している同僚がいた。
相手はわかったらしいが、周囲は大笑いに包まれた。
しかし、説明できますか?電話で「々」の字を

なぜか和歌山弁は「ザジズゼゾ」が言えない。「ダジヅデド」になってしまう・
(江戸っ子が「ハヒフヘホ」が「ハシフフェフォ」となるようなものだ・
魔子様は「朝日新聞」を「あさしひんぶん」という。自分でもそう言っているとわからない)
和歌山の人間が倉庫に「在庫全部出せ」と言ったら倉庫の担当者はズボンを脱いだという
大切な荷主の指示だからという
倉庫の担当者は「臀部出せ(でんぶだせ)」と聞いたという

そんな悠長な笑い話も最近のスピード時代は、許されなくなった。
FAXはいつも使っている、と言うか使えないと困ってしまう
コピーもFAXもスキャンもできる複合機なのだ
市場から入荷の案内、明日の仕入れの明細、メーカーへの注文などなど
毎日毎日入ってくる
そのインクが、予告もなく突然切れたのである。
いつも予備を置いてあるのだが、つい失念してしまったらしい
慌ててAmazonに注文をした

スクリーンショット 2016-07-20 5.54.53

水曜日だった。木曜日には…と思っていた
木曜日にメールが入った。「出荷した」と

「一日遅れか…注文が夕方だったから…」と納得した
金曜日につかない。
土日月と三連休だが、配達はできるはずだ
ところがつかない。
あわててメールで問い合わせた
「土日は配達しない〒」という
月曜日は祝日で火曜日は定休日だ
結局、水曜日に受け取るはめになった。
水曜日に注文して、水曜に受け取った

相手は「ご心配をお掛けして…」とメール
う〜ん発達したシステムに慣らされた落とし穴か…

電話考

電話が嫌いである
と言って電話をマナーモードにしているわけではない
ところがいつも”マナーモード”である
かけている人は、イライラして何回もかけてくる
いつのまにか「何回も電話したのに…」と逆ギレ(?)する

0-30

大学生の頃まで電話は呼び出しであった。
呼び出しとは
「オタクに、電話がかかってきましたよ!」と隣のおばさんが、呼びに来たのである
「すいませんね〜いつも、いつも」と言って隣の家の夕食を囲んでいるところに電話をもらい(そう言っていた?)に行った。
おかずは、煮魚にほうれん草のおひたしだった。

社会人になって初めて机の上に電話があった。
一つの課、6人で3台の電話機だった。
課長専用と、古参の頻繁にかける人と、その他に一台だった。
その他の人が営業に出かけると、事務の女の人と新入社員と二人だけになって、困った
女性の手前、良いカッコをしたいが、受話器が取れないのである
なんせ仕事の電話だから、早口で聞き取れない、それに専門用語の羅列、そして関西弁である。
ヘレン・ケラーの三重苦である
毎日、電話が鳴らないように祈る日々の新入社員時代だった。
ところが会社は、「電話が三回なるまでに受話器を取れ」と指示された
ようやく電話になれた頃、今度は一日電話の応対をするポジションになった。
ラグビーで耳が潰れてちょうどよかった。受話器を押し付けた耳が、ぺちゃんこで痛かった。

そのころ教えられたのは
「相手に電話をさせろ」ということだった
昼休みで誰も居ない時に部長と二人になった。
「後から電話させます」と言ったら
湯気を立てて怒られた
「自分の家から電話してみろ。いくら掛かると思っているのだ」

仕事はそれで慣れたのだが…
女性に電話番号を聞くのは、なかなか出来なかった。
聞き出す技を、いろいろと教わったものだが、どれも成功しない
そのころ公衆電話で長電話して長い行列をする景色がよく見られた
たぶん彼氏に…彼女に…愛の語らいか…別れ話のもつれか…長い電話だったのだろう
どの電話ボックスが先に終わるか、10円玉を一杯抱えた若い男がウロウロしていた。
今、赤い公衆電話はもちろん、緑の電話があるボックスもみない
そういえば…と言うところに時折見かける

0-37

農業の世界に入って畑や田圃で用事を思い出して携帯電話で連絡をする
そうだ
これだ!と20年前に思った。
農家は誰も携帯を持っていなかった
「街の人は公衆電話がいたるところにある、田舎の農家こそ必要」と言いふらしたが…
だれも必要性を感じなかった。
あるとき農家の女性が
「携帯番号を教えてあげる」といわれ驚いた
農家が持っていることではなくて…
女性の電話番号を簡単に聞き出すことが出来たことに対してである

それから急速に携帯が増えてさまざまな事情も変わった。
そんなときに以前教えてもらったことを思い出した

「電話は失礼である。相手が何をしている最中でも呼び出す」
以前は「三回なるまでに出ろ」という言葉も、40年で変わってしまった

今、スマートフォンというらしい
なんでも指先で画面が動くらしい
鉄の塊が空をとぶような感じだ。信じられない。

便利らしいが…不便が、ちょうどだ
生きるのに不自由がなくて、やるべきことがいっぱいある、

0-35

わたしの道はいつも明るい

地元の 新聞を取っていない
ILC問題で、強い肩入れをした偏向報道ばかりするので嫌になった。
おかげで地元のニュースは、TVか…ネットで視るしか無い
”こうさん”の愛した「花巻東が負けた」とニュースを見なかった小生に魔子様が言う。
夏の高校野球県予選である
どのように負けたのだ?
どこに負けたのだ?
何が問題だったのだ?
と思って地元紙のホームページをみた。まだ載っていない。
ホームページに先に掲載されると、ただでさえ部数が落ち込んでいるのに、落ちるというけちくさい考えか?
ネットは速さが売り物だと思ったが…
そのホームページの見出しに、こんなのが載っていた
「短歌研究新人賞に武田さん 盛岡四高卒、滝沢市出身」
稲作農家で市会議員でもある武田哲の次女である。
長男はラグビー、長女はバレリーナ
それぞれに特徴を伸ばした子育てをしていると感心をしていた
そして末っ子は、反発心の強い型破りの次女だと聞いてはいたが…
家族への思いをうたった句を読んでみたいものだ
いつも市政や農政に愚痴を言っている父親が、どんな表現をされているのか…
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜岩手日報より引用

短歌研究社(東京都)の第59回短歌研究新人賞に、滝沢市出身の大学生武田穂佳(ほのか)さん(18)=埼玉県所沢市=の連作「いつも明るい」(30首)が選ばれた。

表題作「好きだって思ったものを信じてるわたしの道はいつも明るい」のほか、「あの夏と呼ぶ夏になると悟りつつ教室の窓が光を通す」など、残しておきたいと願う光あふれる高校生活や、家族への思いなどを平易な言葉で巧みにスケッチした点などが高く評価された。

武田さんは盛岡四高入学と同時に短歌を始め、昨年8月に盛岡市で開かれた全国高校生短歌大会団体の部で大将として同校を初優勝に導いた。昨年の岩手日報随筆賞で優秀賞受賞。

4月から日本大芸術学部文芸学科に通い、象短歌会、早稲田短歌会に所属。武田さんは「審査ではじかれるような平凡な歌も自身を表す作品としてあえて入れた。等身大の自分を評価してもらったようでうれしい」と喜びをかみしめる。

1954年創設の同新人賞は歌人の登竜門の一つとして知られ、過去には歌人で劇作家の寺山修司らが受賞した。今回は547点(1点30首)の応募があり、栗木京子さん、加藤治郎さんら4人が選考した。

(2016/07/12)
 

残り物に福

IMGP3535

朝ごはんである。
まるで小鳥の餌であるが…
この程度で十分なのである

医者から「フンショク」を勧められている
粉飾決算の食事ではない
粉食でもない
分食である。

つまり食道が狭まっている。
糖尿の気がある
体力をつけるために量を食べるには
「少しづつ分けて食べろ!ということである
もう一つはエネルギーの確保に「高脂肪・高蛋白の食事」である
だから残り物を自分用にアレンジして仕上げる

料理は、想像力と創造力と構成力と浅野陽が言った。
IMGP3529

水上勉の「土を食らう日々」池波正太郎の「食卓の情景」
そして浅野陽の「酒飲みの迷い箸」は男の料理本の傑作である。
特に浅野陽の「酒飲みの迷い箸」なんと材料しか書いていないのである。
「あとは想像して創造し、こうせい!」と言う

 

一昨日もらった”いちご煮”の缶詰をご飯に炊き込んで、母屋の母親と魔子様の夕ごはんである。
それの残りと…
売れ残りの野菜かき揚げを、白湯スープに浮かべて、稲庭うどんの切れ端をすきこんだスープである

いつもは、朝めしは、売れ残った冷凍オニギリをチンして、それに卵を溶き入れたスープが朝の第一食である
今朝は豪華な第一食である。朝食ではない。
店で午前中。様々なものを作るときに出てくる半端や、味見が第二食
ランチタイムが終わって、お櫃に残った玄米飯や、おかずで第三食
夕方、小腹がすいたときのノコリモノを第四食
家に帰って、賞味期限が切れた木綿豆腐に、さまざまなドレッシングをアレンジしてビールを一つ
それに店の売れ残りと魔子様と認知症の母の夕食のお余りで…

残り物を、少しづつアレンジして食べるのが、ちょうどいいのである
一人前が胃袋に納まらない
だから飲み放題・食べ放題というシステムには、当てはまらない身体になってしまった

だいたいが残り物を捨てられない性分である。
たぶん団塊の世代に、かすかに引っかかった世代としては、いつもいつも食糧難を聞かされたり、
食事の時に細々と食べ方や、茶碗に張り付いた米粒を沢庵と白湯で流しながらすすった思い出が、そうさせるのだろう
食べきれなかった食べ物を流しの隅の三角籠にエイャァ〜と捨てることが出来ない
少しづつ小さなガラスの容器に入れて、夜のアテにするのである。
だから店から帰って、それらを広げ、ちょとアレンジすると、いつの間にか四〜五品の自分だけの酒菜が出来てしまう
豪華な肉とか刺し身とか、あらためて作る酒菜はいらない
安上がりであるが、旨く作る工夫が面白い

ところが魔子様は団塊の世代から、少し離れた世代である
鼻と舌が、よく効く。
「おかしい」「酸っぱい」と言ってドサッと捨てる。
そして曇ったビニール袋に残り物を入れるものだから、細かな袋が一杯冷蔵庫にある
見えないので早く食べるという判断が出来ない
だから冷蔵庫の中は、いつも戦争である
「これはどうするのだ!」「後で炒め直して食べる」
「これは」「酸味が出ている、もうだめ」
「この刺し身はいつのだ!」「煮れば大丈夫よ」

梅さんは言う
「うちの親戚も八百屋をやっているが、いつも残り物を食べていた」

 

哲学の森

2016第11回哲学の森案内

いつものように「哲学の森」が開催される。
内山節の講演である。

今回は、申し込みが順調だ
ある施設から、大量に参加申し込みがあった。
と、山本先生は言う

去年から、参加者が増えてきた
岩手大学の公開講座に。なったせいだ
今までは10数人のアットホームな雰囲気だったが…

もともとは、別のところでやっていたのだが…
主催者が重荷のように感じていたので、山本先生に頼んだのだ
もうひとつ訳があった。
その街に哲学好きの男がいた。「哲学は俺に任しておけ」というような人だった。
彼は面と向かって内山氏に
「おまえの言っていることなんか哲学と、認めない」とわめきたてた
内山さんは、困惑した顔をした。

内山さんの話す言葉、書く文章は、わかりやすい言葉だった。
哲学の難しい言葉は使わなかった。
例えも、わかりやすい例えを使った。
多くの人が理解できる話だった。
それが彼には癪に障ったのだろう
哲学とは難解な学問である。哲学に興味を持っている人しか理解できない。
それを、わかりやすく言われては…立つ瀬がない
そばで見ていると、そんな雰囲気だった。

中学生の頃、難しい本を読んでいる奴がいた。
難しい言葉で感想を言った。羨ましく思った。
あんな言葉が理解できて、使いこなせて主張できるなんて…
そんな風になりたいと…
先日、還暦祝いで会った。
世の中の見方や生き方が、彼らしくなかった。
当たり前の…昔からの…をひきづっているように感じた。

内山さんは、歴史から経済から技術から、昔の事から、最新のことがらや、考え方や生き方をわかりやすく話す
ある人は「哲学者よりも民俗学者と名乗ったら…」と言い
「経済人が、話を聞きに来る」と
「官僚が、おおく集まってくる」という
そして農民たちが、多く集まって勉強している。
難しいことを、わかり易い言葉で語るのが、一番難しいのである
ある人が言っていた
「内山節は天才である」

8月20日21日岩大演習林にて

止まらない

「スカートの中まで透けて見える」と言ったが…
白内障の手術は、劇的である。
右目の時は、それほどではなかった。
しかし、徐々に徐々にはっきりと見えてきたような気がする

だいたいが、苦労は忘れるものである
見えない時の苦労が、見えた途端、忘れる。

今回の左目は、劇的に変わった。
どう変わったかというと、鏡を見た瞬間、シワだらけの初老の坊主男が写っていた。
以前は、見慣れた入道ヅラだったが…

それでも、タイムラグはあった。
眼帯を外した瞬間、やはりボケていた。
というか、焦点が合わなかった。
それが半日ぐらい続いただろうか…
眼もロンパリ状態で、治るのか?と心配したが…
焦点をあわせると、すっきりとした透明ガラスを通して見えた

 

手術の翌日、手術医は、眼帯を外して検眼をした。
そして一週間、こんどは通院している主治医の検眼で
手術した眼は「2.0」だという。一番下が読めなかったのだが…
眼が良かった子供の頃でさえ「1.5」だった。
主治医は「安心しないでくださいね」と言いながら
「目を疲れさせないように…ドライアイだから、ときどき5分ぐらい目をつぶって…」と言う

眼がすっきりする。これほど楽しいことはない
ただ慣れなのだろうか…老眼鏡を掛けないと字が頭に入っていかない
さて溜まった本を、どんどん読み進めよう
それには時間を確保して…
夜は早く寝ることにした。8時である。夜の八時である。
泡が出る飲物を一本と、適当に残り物を食べただけでもう眠くなる
クローズアップ現代があれば、もう少し長く起きられるが…
国谷裕子がいなくって、起きる必要が無くなった。

夜中に目が覚める。時には2時だったり、1時半だったり、まかり間違うと11時頃起きてしまう。
今の書斎には、ここ10年ぐらいの本が積んである。
書斎とは名ばかりで、本置き場であり、寝室であり、更衣室であり、クローゼットであり、仕事場である。
扉から机まであるく3歩の距離だけに道が通っている。
あとはベッドと、床には配線とゴミ箱と、壁には本棚と衣装箱が配置されていて、かきわけながら机にたどり着く。

それ以前に買った本は、母屋に積んである。
デイサービスの日、母親の留守の時に本棚を探した
今までは読む時間もなかったし、読もうと思っても母がいると”オウム返しのやり取り”で時間が過ぎた。
ゆっくりと探すことが出来た

「あった」向田邦子である

IMGP3539

通勤電車に載っていた頃は文庫本だった。
新書版というのは、ここ20年ぐらいの話ではなかったのか?
文庫本を背広のポケットに入れ、5分10分の時間を惜しんで読んだ。
結局、短時間の移動なので短編やエッセーが多かったが、向田邦子にハマってしまった。

トイレに向田邦子の最近の特集( ムック)を置いてある。
また、だいぶ茶色に変わった新聞の「向田邦子没後30年」の書評が置いてある
それをいつも眺めながら「いつか…。いつか…」と想っていたのだが
眼が見えるようになって、最初に取った本が向田邦子である。
チョトでいい
ちょっとで…

1つ2つを読めば…安心する
と想いながら、止まらない

挙句は、手術した眼から涙がでるほど…
声を大きく出して笑ってしまう

これではせっかくの時間が、もったいない。
と想いながら、止まらない。
向田邦子は、人をよく見ている!

農家レストラン?

先日、行政機関から「こびる食堂の利用客数を教えてくれ」と言う連絡があった。
ふと、”なんだろう?”と思った
ひょっとしたら融資を依頼している金融機関からの調査だろうか?
それとも補助金の申請の参考資料か?
などと余計なことが頭のなかを駆け巡った。

よくよく聞いてみたら「農家レストランの利用者数の調査だ」と言う
こびる食堂が農家レストラン?

いぜんも産直と言うグループに入れようと言う行政の思惑があり
しつこく産直というククリに誘われた。
しつこく断ったが…

当店の売上は「農産物の販売」「食堂と弁当」「調味料という素材を活かす商品」
の三部門に分かれている。分けるほど大きくはないが…(泣)
(一部環境商品 シャボン玉石鹸等)

そんな中でこびる食堂を農家レストランというククリに入れて良いのだろか?
そんなことを思ったが、人にそう思われるのなら、
こちらの努力が足りないとだけだ

そこで確か「こびる食堂の求めるもの」を確か書き溜めていたと思ってファイルをめくった。
和食が世界遺産に選ばれた時に書いた文章が出てきた

2014年(平成26年)2月に書いた文章らしい

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

こびる食堂の考える和食

 

「和食」が世界遺産になりました。

 

ちいさな頃、朝・昼・晩とご飯でした。
味噌汁がつき、漬物があり、塩漬けの魚や青物のおひたしがありました。
中学生の頃でしょうか?
時折出てきた麺といえば、「玉うどん」や茹でそばだけ、だったのに、

中華そばが出てきました。
同じ頃からちょっと前か、エスビーのカレー粉で作った自家製のカレーが食卓に登るようになりましたが、豚肉が入っているのはときどきで、魚肉ソーセージが入っているときもありました。そして時々失敗したのか、今でいうスープカレーのときも有りました。
そして高校を卒業して街ででると、ナポリタンというトマト味のスパゲッティが出てきたり、純喫茶というところで、トーストなどというものも
そういう意味では、昭和3〜40年代のころは、今の多様化する和食の大きな節目だったではないか?と思います。

 

多様化することによって家庭が父権主義の修行的な食事が、楽しい食事に変わっていったという良かった面もありましたが…

一方、楽しくて美味しいという食事が化学調味料や食品添加物によって変化を遂げ、また生産が遠いところで作られることに寄って、見かけの色や保存料で日持ちがして見た目がいいものが、どんどん増えていきました
それから聞いたことのない花粉症やアレルギーがどんどん増えていき、さまざまな規制によって、より一層の安全な食事がつくられるようになりました。
しかし、人間にとって食べ物とは、それから体を作りエネルギーを生み出す源泉でもあります。人間の身体は、水分とタンパク質で出来ております。
たんばく質を作り出すことのできない人間は、ほかから植物たんぱくや動物蛋白を取り入れ続けなければいけません。
動物タンパクは、すべて植物蛋白からつくられます、そういう意味では、植物が人間の体を作っていると言っても過言ではありません。

植物は、太陽光と水と二酸化炭素からブドウ糖を作り出し(光合成)根から吸われた窒素でタンパク質をつくりあげます。

水の循環(雨→地下水→川→海→雲→雨)や健全な土が必要なのです。

土は、有機物の塊です、植物や動物の死骸を分解する微生物が土を作ります。
無機物(石・金属・ガラス)は分解しません。また人工有機化合物(プラスチックなど)も分解しません。微生物によって分解した有機物が土を作り、また土は、固相・気相・液相の三相からなり、土の中にいる微生物に気相・固相は肥料や水を吸着して適宜に供給し、気相は空気を供給し微生物のバランスを保っております。

微生物が有機物を分解し、植物に供給し、それを食べた人間が出す糞を微生物が分解するという循環が成り立っております。

また空気も人間が吸うことに寄って二酸化炭素を発生させ、それを植物ブドウ糖と酸素と水に替え、また空気が作られるという循環になっております。

地球は閉鎖空間ですから、循環を考えなければ破綻してしまいます。
拡大だけでは行き詰まってしまうことは目に見えてしまいます

 

広がった食の空間も、もう少し基本に帰ってみようというのがこびる食堂のテーマです。

 

炊きたての御飯
出汁の香りのする味噌汁
旬という名の季節の小鉢
外国では食べない生卵や納豆の食文化
カレーや中華そばも和食になりました
そして野菜や豆やバランスの採れたメニューと
箸であちこちをつまむという口中調味という食べ方。 

一度、和食の食べ方を基本に戻って見たいものです

 

ゆうき

IMGP3494こんな商品があった。
達筆の筆字のパッケージ(?)だが…
崩して書いてある文字は、どうやら「豪州」「有機」らしい
裏を見たらIMGP3496
オーストラリア産の有機小麦粉という表示だ。

 

有機認証制度ができるときに、議論されていたことを思い出した
有機認証制度とは無農薬・無化学肥料の有機農産物を、公的機関が認証するという制度である)
そのときに有機農産物とは何か?という議論がなされた。
単なる「農薬を使わない。化学肥料を施肥しない。」のが有機農産物なのか?
「それなら中国で作った無農薬・無化学肥料の農産物は有機農産物なのか?」
と言う議論がなされた

これは中国ではないが、オーストラリア産の有機小麦粉である。
現実、中国産や豪州産と言っても、日本の基準で日本人が指導し、収穫後、日本の方式で管理している商品が最近では多くなった。
グローバル社会では、どんな国で作られようと、日本の基準を満たしていれば「日本産」と同等の商品となるのだろう
ただ”人件費”や”地代”が安いので価格的には、「安い」
「いいものを安く」という発想の中からは、海外の輸入物の認定を受けた農産物も、国産有機と商品的には一緒である。

それで、いいのか?

と言う問題が、認証制度が創設されるときに議論されたのである
そもそも「有機農産物」は最近の話である
戦前は、すべて有機農産物だった。(誇張があるが…一部は化学肥料を使っていた)
だから、わざわざ認証する必要も有機農産物と呼ぶ必要もなかった。
それが戦後の食糧不足で増産運動が盛んになり、昭和30年台後半にようやく米が自給できるようになった。
その増産運動が過ぎて昭和40年代後半に減反制度が出来たのである。
そのとき有吉佐和子の「複合汚染」が出版され”環境問題”という存在が明らかにされた
と同時に食べ物も、戦後の農薬・化学肥料多投の栽培方法に疑問を持つ人が言った言葉が「有機」という言葉である
有機農産物というのは、たかだか40年の言葉である。(これはバクッと言っている。(笑)

その時は「有機」というのは”環境問題”が内包され、そしてその環境問題は”地域”というのが当然の事ながら入っていた
なぜなら自然環境は、地域によって違うから…
そして「拡大」を続ける社会に警告を与えながら「循環」の社会の提案でもあった。
その循環は資源の循環ではなく、社会循環であった。

 

数年前、ある農家から相談を受けたことが有った。
「こんど出来た直売所で、”トレサビリティ”という法律が出来て、農薬から肥料からすべて書かないといけない。どうしたらいいだろう」という相談だった。
「並べた農産物のそばに自宅の地図を張りなよ。そして”いつでもどうぞ”という言葉を添えて…」
「循環型の生活をしていますよ1いつでも見に来てください」と言う意思表示である。
合成洗剤や化学調味料や、化学肥料・農薬は使っておりません。と言う自身の生き方の意思表示であり
そして枯渇する化石燃料を、大量に使用した生活は望んでいませんという…

有機というのは単なる付加価値ではない
有機は、奥深い言葉である。

 

おすすめの健康法

久しぶりに朝シャンをした。
そうだなぁ〜
二〜三年いや!
四〜五年は、していないかもしれない。
大体が風呂に入らない
店から帰ってきて、缶ビールを一本飲み干すと寝てしまうのである。
朝は朝で、やるべきことが沢山、列を連ねているので、シャワーなど浴びているヒマはない。

「汚い!」と思われるだろうが…
(魔子様は、”汚い!”と思っている)
汗を、かかないのである。

以前は…(食道がん手術「以前」と「以後」で体質が変わった)
誰にも言っていないので内緒だが、
以前は100kgを超えていた。
以後は70kg前後である
血圧が最高150最低120だったのが
最高100最低70になった。
血液検査ですべての数値が、少年時代に戻ったようである。
(外観も戻って欲しいが、そうはイカのきんたまである。)

小生の人生は、ダイエットの人生であった。
中学の時の受験勉強から太り始めた。
だまって机に向かって座って、夜食にと、世の中に出始めたインスタントラーメンばかり食べていた
そのときの銘柄は、たしか”マルちゃん”だと思ったが…
学生時代に下宿の皆に聞くと名古屋の先輩は”スガキヤ”だ!と言い
江戸近辺は「チキンラーメン」だと言う(どうでもいいことだが…)

学生時代は、グランドを走り回り
社会人になって、横浜のガーディン山付近を走り回り
大阪時代は、梅田から本町まで歩いてビルを駆け上がり
東京へ戻っても二子玉川ふきんの土手を走り
盛岡に戻ってもグランドホテルから中津川を駆けまわり
また川崎では夢見ヶ崎公園まで駆けずり回り
それでようやく100kgを維持していた。
走らなかったら、150kgはゆうに超えていたろう
ダイエットは、運動しても痩せないということを確かめた人生だった

朝、走り回った後は朝シャンである。
すっきりと汗を流してワイシャツを羽織って背広を着て…
といえばカッコが良いが
ワイシャツを羽織った途端、ワイシャツが汗で濡れ、ワイシャツだけならいいが背広まで汗が染み出てきた
汗かきなのである
満員の通勤電車は、汗のなすりつけ合いの喧嘩である。
”たぶん!小生が勝っただろう!”

0-100
そんな体質が一変したのは、60歳のときの食道がんである。

食道を切除したおかげで、縫合した部分が狭まり、食べたものが滞留するのである
だから”胸がいっぱい”になる
”おなかが、いっぱい”ではない。胸なのである。

必然、食べ物が少量になる。
何回も、分けて食べることになる
しかし、客商売であるから。座ってじっくり食べる訳にはいかない
ちょっとの間に、小さなものを口に放り込むのである
だから、じっくり食べる夕食は貴重であるが
それにビールを呑むと”コテッ”と寝てしまう

医者は、「少量で高タンパク・高脂肪の食事を…」と言うが
そんなに牛乳とバターの食事をするわけにはいかないが…

 

ダイエットには食道がん。
高血圧には食道がん。
糖尿病にも食道がん。
睡眠時無呼吸症候群にも食道がん
あっという間に天国に行ける食道がん

 

食道癌は、おすすめの健康法です。

ババ色の世界

手術を重ねるたびに、今回は、きちんと脳裏に刻み込んで…
と想いながら手術に望む

最初の手術は、心臓だった。
ただただ早く無事に終わることを望んでいた。
手術室に入る前は、今生の別れかと思った
そのせいか手術室に入る前に麻酔が効いて寝てしまった。
記憶に留めるも何も手術室の扉しか覚えていない。

二回目は記憶にとどめようと思ったが
手術室に入って、手術台はみたが…
それっきり記憶が無い

三回目は、こんどこそと想いながら
金属製の手術用のベッドに横たわって麻酔を打たれるまでは記憶していたが
金属製のベッドは冷たかった
部屋はメタル色に光り輝いていた記憶しかない

四回めの手術室は、白内障である
これまた眼球の手術だから「気持ちが悪かった」
目玉が取れたらどうしよう!
眼球にメスをいれるのか?
切り開かれた眼球を、どう縫い合わせるのだ!

などと様々なことを考えたが…
最初は延期になって、二回目でようやく手術をした
しかし、それよりも大震災で手術の記憶が残っていないし
白内障は”明確に視野が変わる”という経験は覚えていない

さて今回の白内障の手術は、しっかりと記憶しようと臨んだ

日帰りだから、手術着に着替えて外来用のベッドに横たわり、何回も眼にミズのようなものを掛けられた
三分おきぐらいである。

それを一〇回ぐらいやって、手術室に呼ばれていくと、大きなアームが乗っかっている床屋の椅子のような手術椅子があった。
そこへよじ登り、あっという間に倒されて、医者が
「麻酔をウチますよ…」と

なんと眼球に、一瞬痛みが…走った。

そのあと眼だけ露出する布を被されて、真っ白な光が目を覆い
水のような液体をかけられながら、
海の底から空を見るような映像が五分ほど流れた。
スクリーンショット 2016-06-30 5.57.37

そして終わった

終わってから「朝まで眼帯を外さないで…風呂に入っては駄目、アルコールも駄目。あとは何をしても良い」と言う
しかたがないので、アルコールはやめて、ビールにした。

翌朝、朝一番に病院に行くと眼帯を外す
なんだか手術したほうが透き通ってよく見える
視力も0.2ぐらいだったのが。1.2になっている。
手術しない方が曇ってみえる
なんだこれは…
と想いながらまわりを見ると二重になっている

どうやら今まで無理して焦点を合わせてきたのが癖になってしまったのだろうか…
医者の診察は「問題無いですね…」と言う言葉と共に外へ出た

そとは明るくてよく見える
いままで曇りガラスになっていた風景が透明なガラスに入れ替えたようだ
二重になっていた映像も少しづつ戻ってきた

 

店に行くと、”ふっちゃん”と”討ち入り”どのの重量コンビが、きていた

「どぉ〜」と問われて
「スカート中まで透けて見える」

そんな感じのバラ色の世界が…
いやピンク色の…
いやババ色の世界が広がっていた。