ちいさな野菜畑

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カテゴリーアーカイブ: 私たちの思い

二度泣き橋

盛岡駅の真ん前に、鉄骨がむき出しになった橋がある
開運橋である。

     

小学校のころ、北上から遠足で盛岡に来たときに
バスガイドから聞いた。
「この橋を渡るときに目をつぶって願い事を唱えると、かなう」

それ以来、この橋を渡るたびに願い事をするようになった
「宝くじが当たりますように」
「生活に困らないだけのお金を…」
「1億円を拾えますように」
お金のことばかりだが、お金に縁がない人生が続いている(泣)

「最近」と言っても、2〜3年前の事だが。田口友善さんのコンサートで
この橋が「二度泣き橋」と呼ばれていることを、知った。

なんだか転勤族から出てきたようで…
最初に盛岡駅に降り立ち、駅前の橋を渡るときに、こんな僻地に飛ばされたと淋しくて泣き
再び転勤で盛岡を離れるときに、熱い人情と自然にあふれる盛岡をはなれると悲しくて泣く
それから開運橋が別名「二度泣き橋」と呼ばれるようになった、と言う

明治の頃、鉄道が通って駅舎を作るときに、街中にそんな施設はいらないと言うので
街外れの北上川の向こうに盛岡駅は建てられたと聞く。
 小学生の頃、盛岡駅に降り立つと、大きな橋と、せいぜい二階建ての淋しい町並みがあった。
こんな処に降り立てば、だれもがそう思うのだろうな〜

 

そんな盛岡に4年ほど前に若い夫婦がやってきた。
群馬で生まれ、初任地の仙台から、新しい事務所を盛岡に開設するためにやってきた20代半ばの若者である。
”こんな若造が、そんな仕事が出来るのか?」と思いながら、じっと見守っていたが…
なんといっても後輩であるし、又、後輩の息子でもある。

やがて盛岡の産院で子供が生まれた。
「いい街ですね〜。盛岡に永住したいですね〜」
若者から、そんな言葉を聞いたような気がする。
最初、仙台生まれの奥さんは
「遊ぶ場所が少ない」というようなことを言っていたが…

数年経ち「当分、転勤が無い」と言っていた一ヶ月後
”仙台の状況が悪い、人手が足りない”と言うことで急に転勤の辞令がでた
「なんで僕が?」という驚きとともに、夫婦は遅い桜が散り始めた盛岡を離れた。
 

離れる前に来店した夫婦は
「せっかく知人も出来、子どもの保育園が決まって、通い始めたのに…」
と奥さんは、嘆いていたが…
幼子に呼びかけた
「この子は、大きくなったら盛岡で生まれて育ったことを忘れてしまうのだろうね〜」
若者は、
「大丈夫です。名前は愛永(アイーナ)で、本籍を盛岡にしましたから…、盛岡は最高の町です」

二人が三人になって”二度泣き橋”を泣いて渡っただろうか?

わたしの鎌倉

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鎌倉に行った。何年ぶりだろう。
30代は、憑かれたように鎌倉を歩き回った。

         
 

毎週のように家族を連れて鎌倉に行った。
「お寺巡りはおもしろくない」という家族を説き伏せながら…
当時子供達は「子どもの国のようが良い」というのを無視して…
おにぎり持参して、あちこちと見て回った。
時には、1人でも歩き回った

                            

「教育は歴史である」と思っている。教科書の歴史ではない。
古い建物や街をみて、その先人の知恵をまなび、想いをはせることによって、
現在の自分の存在を確認することではないか?と思う
科学万能の世の中で、振り返ってみることが問われているのではないか?と思う
新しいものを追いかけるせわしい世の中ではなく
      古いものを振り返る余裕を持ちたい。

          

鎌倉には、昭和30年代の姿がある。
なんとなく親しみを持てる街なのである。
小道を歩くと様々な庭が見え、家が見え、家族が見える。
暮らしに密着したちいさな商店がある。

                   

そして、花木に囲まれたすてきな街である

不景気な世の中、観光産業を盛り上げる為に様々なことが行われているが…

観光とは、「光を観る」と書く。
住んでいる人が光り輝く光景でなければ、意味がないのではないか?
昭和30年代は、人々が光輝いていた時代だった

そんな鎌倉は、花が一杯であった、桜が散り始め、いよいよ海棠やシャガの季節を迎え、あじさいへと続く

水を飲むとき、井戸を掘った人を忘れず

中村輝夫が死んだ。享年83歳だったという。

                                   
南洋から引き上げ、横浜で米屋を営み、昭和39年に中村商店を法人化した。
単なる米屋ではなかった。
電子技法を学び、昭和50年には米ぬか石鹸を作り、合成洗剤排除運動を始め、昭和54年には有機農業運動と出会い
会津の熱塩加納村(あつしおかのうむら)の”さゆり米”を育てた。
岩手との出会いは、昭和の末に電子技法の電子水製造装置を”いわて手づくり農場”に納めたことから始まった。
当時、熱塩加納村の生産者や農協との様々な関係の中で悩んでいた彼は”第二の熱塩加納村”として岩手を選んだ。
平成3年には、合鴨農法を岩手に紹介し、玉山・西根の生産者グループによる有機米「啄木米」を育てた。
岩手にとって合鴨農法を育てた人である。
それが高じて彼は、玉山に水田まで購入してしまった。

平成2年に岩手に戻り、手づくり農場の勤め始めた小生にとって、有機農業を初めて教えてくれた人である
そして合鴨農法を岩手で最初に取り組む事になった。
その後、岩崎善隆と畠山幸夫に合鴨農法を教え、それから徐々に裾野が広がり、
平成12年には「全国合鴨フォーラム岩手大会」を盛岡つなぎ温泉で開催するまでに至った。

                                        
福岡の古野隆雄が合鴨農法に新しい電気柵を導入し、全国に飛躍的に広がり、古野隆雄が一躍脚光を浴びたが
合鴨農法は、古野隆雄も中村輝夫も、富山の置田俊雄さんから学んだのである。
古野隆雄が、元祖みたいに世間では騒がれていたが、中村輝夫は置田さんを大事にして古野隆雄を苦々しく思っていた。
 

富山の置田俊雄さんは”MOA”の信者である。
MOAの創始者岡田茂吉から「これからは化学肥料や農薬の汚染で、食べられるものがだんだん少なくなる」
と教えられた置田さんは、ある日、自宅の池で鴨が水草を食べているのにヒントを得て「合鴨農法」に気がついた
試行錯誤しながら「田んぼの除草に合鴨が使える」と言うことを発見した。
そこへ古野隆雄が夫婦で学びにきた。彼は、それを電気柵で囲えるようにし、合鴨農法の「一鳥万宝」という精神を顕した。
その後、彼はスイスの財団から”世界でもっとも傑出した起業家”として表彰され、NHKのプロフェッショナルにも出演した
古野隆雄のアイディアは、だれもが認める。
しかし、最初に発見した人を評価しないでいいのか?というのが中村輝夫の考えである
(一部では置田俊雄の近くの農家、荒田清耕が最初だと言う人がいるが、置田さんに話を聞いた限りでは、違うようである)
 

中村輝夫は、熱塩加納村のさゆり米(さゆり米というのは熱塩加納村のブランドのように言われているが中村商店のブランド)を
「つくっただけ全量引き取る」といって、熱塩加納村に有機米と合鴨農法を広めた。
だれもがアイディアは浮かぶが、実際に売れないと広がりが持てない。
彼は、リスクを承知で一歩踏み込んだのである。
そして、それを彼は、岩手にも持ち込んだのである。
「作ったもの全量引き取る」と…

「水を飲むとき、井戸を掘った人を忘れず」と中国の言葉にあるが

彼は置田さんを忘れず。小生は中村輝夫を忘れない。

金をかせぐ

年が明けて震災記念日の前後だろうか、三宮・芦屋・大阪・京都へ二泊三日の旅に出た。
関西の陽気は、岩手の3月の気分だと思ったが…
岩手は3月になっても、三寒四温である。
最高気温が二桁になろと予報がでても8度程度までしか上がらない。
時折、最低気温が氷点下になり、霜柱がたつ。

芦屋で「白木蓮」を見つけた。つぼみが膨らんだ白木蓮は、3月の今は、もう散っているだろう、

家の白木蓮は、まだ十分に膨らんでいない。例年だと4月の初旬には咲き始めるのだが…
関西と岩手では、3ヶ月ぐらいの季節感の違いがある。

                     

「桜が咲いた」というニュースが聞こえるが、家の梅は、ようやくこのような状態である。

先日は”水仙が芽を出した”と思ったら、チューリップの芽も吹き出した。

              

そろそろ爆発する春を目指して、着々と準備を進めている岩手の3月である。

岩手は四季のメリハリが、はっきりしている。

花が咲き乱れ「爆発する春」短いけれど「暑い緑の夏」長い「燃える紅葉の秋」そして「凍える真っ白の冬」
今が凍える真っ白の冬から、爆発する春に向かう一番良い季節かも知れない。

ところが、稲作農家の八重樫真純は「今の時期が一番いやだ」という
家庭菜園は今年は何を植えようかという「期待に膨らむ春」なのだろうが…
農家にとっては「天候への不安と、これからの農作業」を思うと、憂鬱な気分になるのだろう
 

その差は、金を稼がないでいい人と、金を稼がないといけない人の差かも知れない。

怖い世の中

「このtwitterの下に、”ブログ更新しました”と言う文字を入れよう」とホームページを作ってもらっているパソコンの師匠に言ったら…

「ブログは、毎日更新するものです」と言われてしまった。

昨日は、更新しなかった。
何となく気ぜわしい細かいことが多く、その現実逃避としてちょっとtwitterを読んでいたら、とんでもないことに出くわしたのである。
厚労省虚偽記載事件、村木厚子被告の公判で、石井一議員が証人尋問をされているのを江川紹子と竹中なみが、twitterで実況中継をしているのである。

http://d.hatena.ne.jp/Tony_Shikaku/20100304/1267713363

「冤罪はこうして作られるのか?「検察は、正義ではないのか?」「恐ろしいでっち上げ!」「この裏には、何があるのか」
そんなことを考え、あちこちを読んでいる間に時間が過ぎた。
陰で画策している人、利権で動いている人、様々な裏社会の一面を見たような気がする。

これでは、マスコミはいらないと思わせるような、迫力である
しかし、このtwitterも、利用の仕方によっては、善悪両方に多大な影響を与えるのだろうね

怖い世の中になった。

 

 

 

山下惣一さん

山下惣一さんは、今年74才になると言う
元気だ。若い頃から百姓仕事をしていたせいだろうか?
温泉で裸になっても筋肉は隆々としている。
小生と違って、下腹など全然でていない。(泣)

山下さんは、佐賀県唐津の農民作家である

「減反神社」で直木賞候補にもなり農民文学の最高峰「地上文学賞」も受賞している
そして行動力もあり世界各地の農業を見て回り、日本農政を批判している。
「農政批判ばかりしているが、それではこれからどうしたらいいのだ?」と言われても「分からない」と出会ったばかりの頃は言っていたが
10年前「ついに分かった」と言って「身土不二の探求」を著し、
身土不二こそ日本農業のあり方だ
と提言している

その「身土不二の探求」には岩大鷹嘴テル先生や、専立寺の和尚まで登場し、小生も「盛岡の友人」としてでている
 

12〜3年前から沢内に講演に来た山下さんに
「農政批判で煽っている山下さんには、若者を育てる責任と義務がある。旅費を出せないが宿泊費と飲み代はだすから、東北に来たときは岩手で一杯やろう」
と言って一年に一度岩手に来ることになっている
今回は水沢に講演にくるというので、有志で北上の温泉に集合した

                                                                 

沢内から吉田正志・有馬富弘・北上から八重樫真純・千田茂光、山形村から落安賢吉 そして小生である
宿の料理の他。沢内の大根の一本漬け、ミズの漬け物。そしてハタハタとキンキの寿司漬け。
酒はわしの尾金印・陸羽132・米の発酵した汁・夢灯り・浜千鳥

6時から、5升は呑んだだろうか?一人7合ぐらいはいっただろう
山下さんは「九州では日本酒はごちそう!」と良いながらぐびぐび
そして禁煙しているが「嫌いで別れたわけではない。}と言いながら、もらい煙草を…(内緒だ)
話はパレスチナの農業や各地の農業の話題。そして農政批判と尽きない
もっとも盛り上がったのは西和賀町長選と、西和賀農業のあり方であった。

翌朝。朝風呂に入って朝飯
これがまずい
           

ご飯がとてつもなくまずいのである。北上の人間は「岩崎新田の米はまずい」というが…
おまけにカメムシの斑点米まで混じっている
ぶつぶつ言いながら、お代わりをしてしまった。
貧乏性のせいか、とりあえず腹を満たそうと言う本能がさわぐのだろうか(泣)

この宿は湯治客ようの宿ではあるが、近隣の住民が銭湯代わりに入っているようである。
なんせ入浴料が150円なのである
洗面道具を抱えて、朝からどんどん客が入ってくる
近くには夏油温泉があるが冬期閉鎖で、そばには夏油川が流れている

                             

 

「また来年!」と再会を約して、解散!

 

 

 

  

専立寺

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寺子屋の時は、いつも当店の残り物(本日賞味期限)を持参しているが
それ以上に専立寺のお菓子がすばらしい
これに、お酒が出てくれば言うこと無し
おまけでいい女と…

本日は、宗教と信仰でもめた
あのかたくなな住職の姿勢は、サッカーを見たいのでいらいらしていたのだろうか?

哲学寺子屋

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専立寺にて読書会をしている。
もう何年続いているだろうか
確か寺子屋は平成11年からだろう?
最初に専立寺とであったときは平成8年。
その時に出会った子は、もう結婚するという
たしか小学生だったのではないだろうか
いやはやん長いこと続いている
続けば良いというものではないが…

準備中

メニューが、だいぶ準備中である。
これは、小生の資料がまだまだ出来ていないためである。
今、スズリョウ君と一生懸命に作っている最中である
完成は、今年の中頃になるだろう?

しかし、完成というのはたぶん無いだろう
どんどん進化していくから…(深化?)
皆様の意見を取り入れながら、深化していきたい

 

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