ちいさな野菜畑

ちいさな野菜畑ブログ

カテゴリーアーカイブ: 私たちの思い

せんべい

青豆入り南部せんべいが、「だぁすこ」に売っていた。

 

花巻まで行って花巻酵素の「ぼかし肥」買いに行った帰りの時である
「青豆」と強調しているのが目に付いたので、ついつい買ってしまった
「秘伝」を利用できないか?と思ったのである
しかし、裏を見たら二戸の業者が作っている。
花巻の産直で、二戸のせんべいを買ってしまった。

まぁ〜JA系の産直だから、なんでも有りだが…
産直には、大きく分けて、JA系と行政系と民間系と三種類ある。
経営を農協が担っているJA系。道の駅など行政が絡んでいる行政系。そして農家が自主的にやったり民間企業がやっている民間系
だいたい規模が大きいのがJA系である。中程度が行政系。小規模が民間系、と思えば間違いがない(岩手の場合)
あるJA系の産直は「スーバーをやっつけろ」みたいなイケイケドンドンでやっていると聞く
結局、資本力の勝負になってしまうのだが

資本力の勝負に持ち込まないためにも、関係性の世界で生きていきたい物だ

懐かしく力強い味

10年前ぐらいだろうか?記憶が定かでない
タイマグラに、身土不二いわてのイベントで行った。
10年前の民宿「フィールドノート」は、森に囲まれていた

確か、その2〜3年前にタイマグラから一本の電話が有った。
「ばぁちゃんが山を降りたので、ばぁちゃんの作った味噌を売って欲しい」
そのときは、単なる味噌玉で造った味噌という認識しか無かった。
「袋に詰めてくれたら、扱いが出来るのだが…」
当時は、量り売りする手間もなかった。ビニールハウスの店で温度管理も出来なかった
 

その後「ばぁちゃんの作った人参や、ジャガイモを売って欲しい」と、また電話が有った
おんぼろ車で山奥へ向かった。ばぁちゃんの家は、フィールドノートの上にあった。
薄暗い納屋のような大きな家で、土間にあった山のような人参とジャガイモを、肥料袋に詰めて帰ってきた、

そんなことからタイマグラのとの付き合いが始まった。
そのとき電話を掛けてきたのは「タイマグラばぁちゃん」の監督澄川嘉彦である。

タイマグラばあちゃん」は、彼がNHKのディレクターとして日本で一番最後に電気が通ったタイマグラで「マサヨばぁちゃんの天地」というドキュメンタリーを制作し
その縁がもとでNHKを退社してタイマグラに移り住み、マサヨばぁちゃんの記録をした映画である。
”タイマグラ”とは、アイヌ語の地名で”森の奥へと続く道”という意味らしい。(最初は、、水の豊かな森というような事を聞いたが…)

そんな縁で、彼が岩手食文化研究会の総会で特別講演をすると言うので出かけていった

           

「タイマグラばぁちゃん」は、3度ほど見た。しかし、じっくりと話を聞いたのは今回が初めてだろう
その映像の深い意味がよく分かり、その映像にでてこない風景が思い起こされた

「タイマグラが明るくなった」という言葉に驚いた
鬱蒼とした森の中にあると思っていたが、昭和30年代に何百年というブナや広葉樹の森が伐採されて、小生らが行ったときの周辺は50年程度の森だったのだ

「ジャガイモが凍らなくなった」
マイナス26℃ぐらいまで下がった冬の気温が、今はマイナス15℃ぐらいとなったと言う

川の水に浸けて、軒下に下げて保存食として利用していたジャガイモが凍らなくなった
彼は「気温差があるほど、地球の温度の変化を感じる」と言った、

彼の話すばぁちゃんの自然とともに暮らす話は、まさに「身土不二」そのものであった
そして八百万の神と一緒に棲む、そのすばらしい世界は、これからのあるべき方向が見えてくるような気がした

  今,そのマサヨばぁちゃんの畑は、照屋靖が耕している
  彼は「タイマグラという表示をしたくない。ばぁちゃんの名を使いたくない」
  と言って”川井村江繋 照屋靖”の表示しかしていない

  
 

 

そんないい話のあと、蕎麦屋の二階での懇親会は
ちょっと場違いの料理と         
そばに座った牛飼いの酌で、大量に飲みすぎた
 

意地汚い小生は、つぎの呑み屋で
「ばぁちゃんは、雑穀でどぶろくを作っていただろうね」と
あくまでも八百万の世界と酒の関係性を追求するのだった(笑)

しかし、あのマサヨばぁちゃんの味噌が、あれば…
あの味噌は「懐かしく力強い味がした」と言う

テスト送信 昨日の一本桜

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これはテストです。

mixiは、いちいちブログをコピペするのは面倒だと思っていたが…
なんとブログのURLを記入しただけでテーマも、mixiの日記に表示されることを発見した(驚き)

そして携帯写真は今までtwitterにしか送らなかったが…ブログに送ってみたらmixiでどうなるかのテスト?

世の中、こんなに進んでいるんだ。
わしが、遅れているだけか?

そのうちに、飯を食わなくても腹一杯になったり
稼がなくても財布に、いつも金が入っていたり
女嫌いの小生に、若い美女が、はべったり(?)

願えば、なんでも叶うのか?

降参

店から自宅に帰ってくると、まず服を抜いて夕刊に目を通し、それから、おもむろにニュースをみながら晩酌をする。
寒ければ熱燗、暑ければビール、どちらとも言えない時は”もっきり(コップ酒)”である。
最近は、「熱燗」と「もっきり」と「ビール」が、交互である。
それだけ、気温の変化が激しいという、小生の体内温度計である。

今日は、「もっきり」を呑もうと夕刊を広げる。
夕刊は、いつも一面の見出しを見て、その下のコラム「交差点」を見る。
日替わりで筆者が替わり。社会時評や家庭問題など結構おもしろいコラムが多い。

「今日は…」とひろげたら

なんだか小生のblogをもとに書いた内容である。

ふむふむ、なるほど、なるほど、

単なる小生のような、批判のための批判ではなく、
一歩突っ込んで政策と結びつけ、きっちりと批判し。最後に落ちを作っている

  う〜ん!上手い!

まったく、この筆者には「降参」である。

記憶にない

「すごい風格だな」と友人が言った。
60年の人生の重みと、体重の重さが,そう見せるのだろうか(泣)

中学校の同窓会が温泉であった。
”厄年の42歳から5回も行っている”と言う
いままで一回も参加したことはない。
今回は、還暦の同窓会ということなので、
”死なないうちに(自分が…やつらが…)会っておこう”と想った訳ではないが…

                            

我々の時代は、団塊の世代との境目である。
あるときは団塊の世代の仲間にいれられ、あるときは外される
今懐かしく振り返る昭和30年代を小学生・中学生として過ごしてきた年代である
学校も暖房が薪ストーブから石炭へ…給食が地方まで広がった時期でもある
集団就職列車も最後の方だろうか…クラスからも何人か、愛知へ東京へと向かった
冷蔵庫やテレビが普及し初め、電話がまだ近所に数軒しかなかった。
ズボンにつぎはぎをして、ズック靴を履き、お下がりの服を着て、野山をかけずり回った。
夏は川や堰で泳ぎ、冬は竹スキーや下駄スケートで遊んだ。
近所では醤油や味噌の貸し借りもあり、町内会や子供会の活動も活発にあり、コミュニティが存在していたが
まだまだ、多くの人が貧乏だった時代である。
しかし”貧乏”ではあったが”貧困”ではなかった。
希望に満ちあふれていたわけではないが「頑張ればなんとかなる」と言う時代だったような気がする

そんな時代を、一緒に過ごした仲間が集った。
大きな中学校で、一クラス50人前後で12クラスあったから600人いた
修学旅行も300人の2班に分かれて行った。
端っこのクラスは、同級生とは言え、顔も名前も知らない人が大勢いた。
それが卒業いらい初めて出会うのであるから、最初は戸惑う

じっと顔を見て、名札を見て。「おう!おまえか?」
名札が見えないと、ずっとちらちらと顔を見て黙って考えることになる
しかし、名前を名乗っても「さぁ〜知らない」と言われたら
ひどく惨めである。
そんな光景が、あちこちで見られた

しかし、こちらが覚えていた出来事を、向こうが覚えていない
向こうが感慨深げに思い出話をはなしてくれても、こちらが記憶にない。
人の記憶というのは、当てにならない物であると言うことを痛感した。
45年の歳月は、悪い記憶を消し去り、良い記憶だけ残しているようである

二人に言われた
「お前に、いじめられたよな」と
「いじめたのは、お前だよ」と切り返したが…
いじめっ子だったのだろうか?小生は?記憶に無い。

しかし、総じて成績の良かった仲間は、皆定年や定年前に退職して、第二の人生のスタートを切っていた
成績の悪かった仲間は、元気が良かった。まだまだ自営業や、中小企業の親父として現役で頑張っている
戦後の偏差値教育は、失敗だったのではないだろうか?と思う45年目の出会いであった。

見えない部分

苗の商戦も、そろそろ終盤である。
寒かったゴールディンウィークのおかげで、長く続いた今年の苗の商戦は、5月下旬頃まで続いた。
続いたのは良いが、爆発的な売上はなく、低調ながら続いたと言うことだった。

そんな5月の中旬に、依頼していた苗が二人から届いた
藤沢精悦から、ゴーヤ苗4種(島さんご・純白ゴーヤ・寿限無・太れいし)である。
仮植前の連結のポット苗である。

(農家は、種を連結ポットに植える。そして発芽して。双葉がでて本葉が展開した頃、ポットに植え替えする)
ポットに植え替えする前の連結ポット苗で、農家は、このまま畑に植えるのだが、
天気の状態や、畑の状態。また品種によっては大きくするためにさらに大きな3寸ポットに植え替える
なぜ、こんな面倒な手間を掛けるか?と言うと
発芽しない場合の土の節約・育苗ハウスの面積の節約。などなど節約と管理しやすさの為である。

もう一人、阿部幸良から、中玉トマト苗が各種届いた。
この苗は、仮植した直後の苗のようである。まだポットに十分に根が回っていない。
根がしっかりと張って、ポットの土をつかだころが、売り場に並べられるのだが…
(それを根鉢という、これが過ぎるとポットから苗を引き抜いたときに真っ白に根が回っていることがある。畑に定植するときは、この白い状態の根を取って植えないと新しい根が出てこない)

そんな二人の苗を、すこし時間を掛けるため温室において根の成長を促す
藤沢精悦のゴーヤ苗は、ポットに植え替えして…

                        

二人の苗が遅れているわけではない。
今の家庭菜園の定植が、早すぎるのである。
農家は、遅霜の恐れが無くなった時に植える。
それが、だいたい5月の20日頃、ところがその時期は田植えと重なる
田植えが終わってからら植え始めるから、6月になってからの作業となる。

それを家庭菜園は、ゴールディンウィークから始めるから、大変になる

植えたけど、枯れた
植えたままの状態で大きくならない
霜にあたって全滅した
保管していた苗に、水やりを忘れた
根が回りすぎて、そのまま成長しない
苗のまま、食べてしまった
あまりにも小さくて踏んづけてしまった
等々

それで又再び、苗を買いに走る
そこで苗屋の鴨になる
そういう図式が多いのである。

地上に出ている部分だけ観ている人が多いが、畑に植えるというのは、
根を十分に張らせるためであり、根を張るためには十分に地温が上がらないと根は張らない
いくら早植えしても、畑の地温を上げることは不可能である
見えている部分だけで判断するのではなく、見えない部分を思いやることが大事である

これは、人を見るときにも通用するのではないだろうか?

小生の見えない部分を見て欲しい。
なにも無いが…(泣)

めんこいらず

一本桜が青々としてきた

岩手山も、春霞の上に浮かんでいる。

街中は、初夏の装い

そんな5月の最終金曜日、いつもの同窓会に参加した

だいたい同窓会は、嫌いである。
”懐かしい顔に会う”と言うが、「それでどうなんだ!」と想うのだが…
”今の仕事に役立つ人脈づくり”と位置づける人もいるが…
こちとら、あふれる人間関係をどう整理するか?と言う問題なのだが…(笑)
「懐かしい昔の話を…」と言っても、恥ずかしい人生(?)を送ってきた自分にとって、煩わしいだけである

しかし、この同窓会は、毎年参加している。
なんと言ったって日頃からお世話になっている人が、大勢いるからである。
 

東京から二度戻ってきた。
一度目は、30代前半と若かったし、短い期間だったから、多くの人と出会っていない。
二度目は40になったばかりの頃である。
農業法人に勤め、それを辞めて商売を初めた。
そのころ、客としてやってきた新聞社に勤めていた同窓の先輩が、「応援するよ」と言ってくれた
そして同級生や、先輩が盛岡に大勢いることが分かった。
また全国的なイベントをプロデュースしたときも、先輩である行政の幹部も応援していただいた。
今の人脈は、その積み重ねのような物である。

いつもは、喧噪の中を酒をつぎながら挨拶して回るのだが…
今回は二子の鬼剣舞が華を添えた

鬼剣舞は、中学校の運動会で定番だった。
美術の時間にお面を作らされ、浴衣を縫って、ススキの穂を頭に飾り
木を削って刀を作った。

「おめぇ、めんこいらずだじゃ」と言われながら…

今日も中学校の還暦の同窓会である。600人中300人が集まるという
中学校を卒業以来、一度も参加したことがない。
初めての参加である。

人生の重荷

久しぶりに盛岡南公園球技場に仕事を抜け出し、ラグビーを見に行った。
その前は、確か…、一昨年の高校の花園出場決勝戦だったと思う。
母校が、これに勝てば”3回目の花園出場”と言う試合であった。
後半まで点数的には勝っていたが、後半の後半で逆転された試合だった。

今回はIBC杯ラグビー招待試合に、従兄弟の長男が「慶応のスタメンで出場する」と言うので、出かけた
慶応のラグビーは、入学するのに特別枠が無く、鍛え上げて強くなっていくチームである。
昔から、タックルとスクラムの猛練習で有名だった。
他のチームは、高校時代からのスター選手を入学させ華やかなメンバーなのだが、慶応はそのスマートなイメージとは違い、泥臭いラグビースタイルを特徴としていた。
そして、いつも”後一歩”というところで勝利を逃すので、野球で言えば阪神タイガースのようである。(笑)
慶応ラグビー部のHPをみたら、なんと190名の大所帯である。プレーヤーだけでも、160名近くいる、
その中で、二年生でAチームに選ばれるというのは、相当なセンスと努力が認められていることだろう
従兄弟は、
「たまたまレギュラーが怪我をして繰り上がっただけだ。秋になったらレギュラーが復帰してくるから…」
というが、繰り上げる位置までに居る、というのは大変なことである。
従兄弟は、札幌に転勤になり、東京の会議にでかけ、仙台の実家から家族を連れて見に来た
「息子は、一年の時は自宅から2時間半かけて通っていたが、二年になってから合宿所に移った。全く連絡が無く、今回もホームページで試合があることを知った」
と言う。

まったく、どこの息子も一緒だ。とはいえ自分も、そのような生き方をしてきたから、息子に文句も言えない
しかし、最近は携帯メールがあるから、魔子様とは連絡を取っているようであるが…
 

        

しかし、伝統校は試合前の練習用ジャージもおそろいである。
我々のような無名校は、試合前でも、ファーストジャージーだったが…(泣)

          

       

 

相手は釜石シーウェイブスである。春の学生は、まだ切り替わったばかりで、大差で負けるだろうと思ったが
伝統の炎のタックルと、平均体重で13kgも差があるスクラムを互角にわたりあい、点数は開いたが良い試合だった
従兄弟の長男は、スクラム第二列のロックとしてフル出場した
(招待時試合なので入れ替わり自由で、出たり入ったりしていた。ちょっと興味をそいだが…)
ポジショニングが良く、ボールに良く絡んでいた、
(高校時代は第三列のフランカーをやっていたので、分かっているのだろうと思う)

「これは期待できるな、秋の対抗戦が楽しみだ」と従兄弟に伝えた。

自分のラグビー人生を振り返って比べてみると、なんとも情けない。
そもそも高校に入ったときに中学のサッカー部の仲間たちと
「サッカー部に入ろう」と思ったら、高校はラグビー部だけで、サッカー部が無かった。
しかたがなく仲間とともに、何も知らないラグビーをやるハメになった。

父に連れられて幼い頃ラグビーを見に行った記憶があるが。
その記憶では確か”一列に並んでスクラムを組んだ”ような…
「ラインアウトとスクラムを一緒にしている」のである
そんな程度の知識だった。

部員が少なく、”背が高い”と言う理由だけで一年からレギュラーになったが、
試合では、ただ上級生の言われるままに動いていただけである。
またチームは、春の高校総体があると三年生が受験勉強のため抜けるので、
秋の県民体育大会。花園予選。新人戦と、いつも下位に甘んじていた。
 ようやく県内の普通高校で初めて花園出場をつかんだのは、卒業してから6年たった後である。
 うれしくて社会人一年生になっていたが、花園まで見に行った。
 

大学では、「違うスポーツを…できたらアメリカンフットボールを…」と思っていたら
これまた、アメリカンフットボールもサッカー部も無く、ラグビー部だけだった。
入学式にラグビー部の先輩に捕まり、仕方なく入った。
「名門校(黒沢尻工業と間違えられた)からきた経験者」ということで期待されたが
一年の時は、浪人して体がなまっていたので、練習に追いつけず、躰を絞るのが精一杯だった。
地方の大学だったので、地域リーグで優勝争いに絡むのせいぜいで、全国大会とは縁がなかった4年間であった。
 

社会人になってからも、朝、出勤前に走ったり、一駅前で降りて歩いたりと体調維持に努めたが、
しょせん、やらされた激しい練習で絞った体重にもどらず、どんどんぶくぶく太るだけである。
30代で一時、地域の社会人リーグに参加したが、息が切れる、頭が先に行って足が追いついていかない
そんな、プレーをしていた

学生時代は181cm70kgの痩身長軀だったが、
還暦になろうとする今は180cm9?kgのウドの大木と化した。
毎日2?kgの人生の重荷を背負って、歩く日々である。

もういちど、溌剌と芝生のグランドを走り回りたいものだ…
と思いながら、重荷を背負って転げ回る人生という荒波のグランドである。

二度泣き橋

盛岡駅の真ん前に、鉄骨がむき出しになった橋がある
開運橋である。

     

小学校のころ、北上から遠足で盛岡に来たときに
バスガイドから聞いた。
「この橋を渡るときに目をつぶって願い事を唱えると、かなう」

それ以来、この橋を渡るたびに願い事をするようになった
「宝くじが当たりますように」
「生活に困らないだけのお金を…」
「1億円を拾えますように」
お金のことばかりだが、お金に縁がない人生が続いている(泣)

「最近」と言っても、2〜3年前の事だが。田口友善さんのコンサートで
この橋が「二度泣き橋」と呼ばれていることを、知った。

なんだか転勤族から出てきたようで…
最初に盛岡駅に降り立ち、駅前の橋を渡るときに、こんな僻地に飛ばされたと淋しくて泣き
再び転勤で盛岡を離れるときに、熱い人情と自然にあふれる盛岡をはなれると悲しくて泣く
それから開運橋が別名「二度泣き橋」と呼ばれるようになった、と言う

明治の頃、鉄道が通って駅舎を作るときに、街中にそんな施設はいらないと言うので
街外れの北上川の向こうに盛岡駅は建てられたと聞く。
 小学生の頃、盛岡駅に降り立つと、大きな橋と、せいぜい二階建ての淋しい町並みがあった。
こんな処に降り立てば、だれもがそう思うのだろうな〜

 

そんな盛岡に4年ほど前に若い夫婦がやってきた。
群馬で生まれ、初任地の仙台から、新しい事務所を盛岡に開設するためにやってきた20代半ばの若者である。
”こんな若造が、そんな仕事が出来るのか?」と思いながら、じっと見守っていたが…
なんといっても後輩であるし、又、後輩の息子でもある。

やがて盛岡の産院で子供が生まれた。
「いい街ですね〜。盛岡に永住したいですね〜」
若者から、そんな言葉を聞いたような気がする。
最初、仙台生まれの奥さんは
「遊ぶ場所が少ない」というようなことを言っていたが…

数年経ち「当分、転勤が無い」と言っていた一ヶ月後
”仙台の状況が悪い、人手が足りない”と言うことで急に転勤の辞令がでた
「なんで僕が?」という驚きとともに、夫婦は遅い桜が散り始めた盛岡を離れた。
 

離れる前に来店した夫婦は
「せっかく知人も出来、子どもの保育園が決まって、通い始めたのに…」
と奥さんは、嘆いていたが…
幼子に呼びかけた
「この子は、大きくなったら盛岡で生まれて育ったことを忘れてしまうのだろうね〜」
若者は、
「大丈夫です。名前は愛永(アイーナ)で、本籍を盛岡にしましたから…、盛岡は最高の町です」

二人が三人になって”二度泣き橋”を泣いて渡っただろうか?

わたしの鎌倉

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鎌倉に行った。何年ぶりだろう。
30代は、憑かれたように鎌倉を歩き回った。

         
 

毎週のように家族を連れて鎌倉に行った。
「お寺巡りはおもしろくない」という家族を説き伏せながら…
当時子供達は「子どもの国のようが良い」というのを無視して…
おにぎり持参して、あちこちと見て回った。
時には、1人でも歩き回った

                            

「教育は歴史である」と思っている。教科書の歴史ではない。
古い建物や街をみて、その先人の知恵をまなび、想いをはせることによって、
現在の自分の存在を確認することではないか?と思う
科学万能の世の中で、振り返ってみることが問われているのではないか?と思う
新しいものを追いかけるせわしい世の中ではなく
      古いものを振り返る余裕を持ちたい。

          

鎌倉には、昭和30年代の姿がある。
なんとなく親しみを持てる街なのである。
小道を歩くと様々な庭が見え、家が見え、家族が見える。
暮らしに密着したちいさな商店がある。

                   

そして、花木に囲まれたすてきな街である

不景気な世の中、観光産業を盛り上げる為に様々なことが行われているが…

観光とは、「光を観る」と書く。
住んでいる人が光り輝く光景でなければ、意味がないのではないか?
昭和30年代は、人々が光輝いていた時代だった

そんな鎌倉は、花が一杯であった、桜が散り始め、いよいよ海棠やシャガの季節を迎え、あじさいへと続く

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