ちいさな野菜畑

ちいさな野菜畑ブログ

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結城登美雄

結城登美雄は地元学を提唱している。
地元の資源を見直そうと言う提案である。
中山間地の限界集落と言われるような所でも、食糧生産という人の手を加えることによってすばらしい景観を生んでいる

 

彼の講演で印象に残った言葉を羅列する

沖縄の老婆に聞かれた
「食とは何か?」答えられないで入ると老婆は「食とはヌチグスイ(命の薬)」と言った
「本土の人は、人様に作ることを頼んでおいて、疑い深く視ている。何故自分で作らないのか、作る人の苦労がわからない本土の人よ」

地域の祭りとは神への祈りである。食糧を作ることによって様々な芸能文化を生んできた。
沖縄に「五風十雨」という祭りの旗がある。「五日に一度の風、十日に一度の雨」を祈る旗だ
大事なモノは何か?と沖縄の人に聞いた時
「水・光・風・土」と答えた。人間は「土」づくりは、できる
「水光風」は、神に祈るしかない。

プラトンは。師のソクラテスへ聞いた「国家にと言って大事なモノは何か?」
ソクラテスは言った
「あるゆる必要の中で、最初にして最大のモノは、生命と生存をするための食糧の供給である」

最大の社会資本は、食べるものである

日本の米は、農家の年金で成り立っている。国家ではない

金がないのに、村は村で、なぜありえたのか?

自然は寂しい、人の手が加わると暖かくなる(宮本常一談)

白川の関で、一ヶ月の間、北海道・東北の食糧供給を止めよう!(聴衆に大いに受けた)

彼は「あなたの食べる力を貸してください」という呼びかけで「鳴子の米プロジェクト」を作った
東北181号という低アミロース米(餅米と粳米の中間)を鳴子の農家でつくり、鳴子温泉の温泉宿で昼食のお握りに使って貰うプロジェクトである
その米は24000円(俵)で消費者が購入する。農家は18000円を受け取る。差額の6000円は、事務局の経費と若者の農業支援だという
高齢化する農村に、若者が再生産できる価格を!と言う提案である
農水省試算では。今の農業は時給178円であるが、このプロジェクトでは時給1000円になるという。若者が農業に参加できる数字だ

 

高齢化する農業で、食糧生産はあと10年もたない
海外の食糧はあてにならない。
日本の食糧生産は、このままで良いのか?

 

 

全くその通りなのだが…
これから取り組む人への農業の魅力、農業の問題点等々が…
その辺が欠けているような…
やはり民俗学という点で捕まえているからだろう

 

5時で終わるかと思ったら、まだ続くらしい
外へ出たら粉雪が舞っていた。

 

地域で暮らす

決算が終わった。
と言うよりも、税理士から怒られる時間が過ぎた、と言うべきか
売上が減り、利益も減った
よく考えてみたら昨年は「春は冷たく、夏は暑く、実りの秋にモノが出てこない」と言う一年だった。
春の冷え込みで野菜苗や花壇苗は、成育が遅れ、売るタイミングを逃した。
あの酷暑の夏に、客は出歩かない。またあの暑さでは、食欲もなく、火を使って料理しようという気もおこらないだろう
そして出来秋。林檎の贈答用が全くと言って良いほど出てこない。売り玉がないのだ。
一年間、手の打ちようがない気象条件と販売環境だった。

昔、商社にいた時分によく言われた
「”売れない”という言い訳はするな。売れている会社があれば、そこよりも努力が足りないのだ」とよく言われた
商社というのは、売る仕事である。
とりあえず売り玉を求めて…客の要望に添って…と言う事で売上を上げていく
売り玉が無かったら作る。買う客を探して売る。売れない在庫を売る。
地域を限定しない。商品も限定しない。売れれば良いのだ。

ところが店舗を構えた八百屋は、地域が限定される。遠くからわざわざ買いに来ない
八百屋に電気冷蔵庫を並べても、客は求めないそして商品は、一日一日と悪くなる。
以前は街に八百屋が一軒だけあったが、今は量販店ができ、大規模駐車場がある大型ショッピングモールができた。
30万人の盛岡で、30万個の胃袋に入る量しか売れないのに、それ以上に店と商品が並んだ。
競争である。

その競争に勝てなければ、生き残れない。
勝つためには、品揃えをよくして値段を安くする。お客は喜ぶが、農家は泣くし、店も利益が上がらない
資本力のある量販店は耐えられるが、個人商店では限界がある。
結局、八百屋がつぶれ大規模店だけ残り、そこまで行けない生活弱者が困る。
ドイツでは、生鮮品は、毎日のモノだから、「歩いて買いに行けない所へ店を出しては行けない」と言う法律が出来たと言う

便利に安くて効率的な買い物が出来るという仕組みは、結局、不便な生活を強いられる
と言って目先の事しか考えられない消費者を責めることは出来ない
地域とは何か?地域で快適に暮らすには…

先日、過疎化した集落で、お店をみんなで作ったと言う番組があった
一方、インターネットでその日のうちに入手出来るというシステムも紹介された
生きていくシステムは作れるが、暮らしていく地域は守らないと行けない

しかし、暮らしを守るために、目先の競争に勝たなければいけない(泣)

趣味の毎日

今年最後の休日が終わって、荷物の集荷に行った

休日は1月1日から4日までの四日間しかないのだ。
別に罰があたって働かせられている訳ではない。
”働くのが趣味”なのだ。
昔、言われた「仕事を趣味にしろ!」と
昔というのは、ピンクレディが結成した頃である。
よく考えてみると「体よく過重労働をさせられたのかも知れないが…」
おかげで仕事を趣味してしまったので、毎日が趣味という楽しい人生を送ることになった(泣)

しかし、8時間労働とかというのは、時間を切り売りしているような…
交換可能な人間は、時間を切り売りして金を稼ぐしか無いのだろう
○○屋というのは、暮らしに密着しているから、労働時間などという概念は無いと思うのだが…
そういえば、極悪和尚の所だって…
年から年中、無休だ。葬儀に休みはない。
と言って、毎日葬儀がある訳ではないから、休日のほうが多いのか?

さて後361日、趣味の毎日が続く。(大泣)

安ければそれで良いのか?

雪かきをした。スコップが折れた。

 

今日から営業していると思っているのだろうか

客が次から次へと来る

「明日からですよ」と言いながら雪かきをした。
 

「干し椎茸を分けてください」という若い女性がいた

「それならあるから、…」と店を開けた

時間をかけて椎茸を選ぶと…

「釣り銭がない方が良いですね」と言って財布を捜しながら彼女は言った

「椎茸を中国へ送くると喜ばれるのですよ。香りが良いって…」

 

中国からの輸入で国産の干し椎茸は、壊滅した
その中国で日本産の干し椎茸が喜ばれると言う
香りのない中国商品を選ぶ日本人
日本からの干し椎茸を喜ぶ中国人

新年早々、貧しい日本を実感した。
安ければ、それで良いのか?

きっかけづくり

机に向かって考えた。
「下手の考え休むに似たり」というが…
しかし、「人間は考える葦」だという

昨年二月からblogを初めて、もうすぐ一年になる
「一日2本」を目標にしてきたが…達成出来た月は、無い。
二日酔いや、呑みすぎて寝坊したときは、かけない、(酒が原因だ!)
数多く書けば良い。と言うモノではない
読む方だって、つらい
大体が読み返してみても、そんなに面白いモノはない
別に面白いモノを綴ろうと想っている訳ではないが…

blogは、実験なのだ

昭和30年代の末、「主婦の店ダイエー」が出来てから、流通業が変わった
いや「地域」そのものが変わった。

それまでは肉屋、魚屋、八百屋、米屋など、様々小売業が地域にあり、小商いをしていた
売上は小さいが、客との関係性の中でモノのやりとりがあり、金銭の授受があった。
会話が無いと成り立たない世界ということだろうか?
そして、それは商圏という「ちいさな地域」も、作っていた、

それを量販店は壊した。
拡大に拡大を続けて、回りを吸収し、そして今、大規模量販店は、流通業ではなく不動産業になった。
フロアーを貸して賃貸料を取るという。
また中小の量販店は、多くの商品を並べて選ばせると言う、販売をしている。
「売る」と言うことではなく「選ぶ」という手法である
これは売上という数字を上げるには、効率が良い。会話をしなくても良いから…
ただ、「在庫を持つ」という、ある程度の資本力が必要とされる

ちいさな「○○屋」の小売業は、結局、成り立たなくなってしまった

そこで出てきたのが「街角のコンビニ」である。
大量の在庫を本部にもち、的確に届け、画一的な
「いらぁしゃいませ、こんにちはぁ〜」さえ覚えれば、誰でも出来る。
なにがどこにあるかさえ、分かればいい。そこには、会話が無い。
それどころか、競争相手がでてくれば、簡単に無くなる。

産直でさえ、そうである。
並べて選んで貰う。そこに会話が無い。
顔が見えると言いながら、顔が見えれば良いのか?という検証がなされていない
顔が見えたら困る生産者もいる。
(「何故それを作っているのか?」と聞かれても、農協が作れと言うから…
売れそうだから…誰それのが売れているから…と言うだけである。
たまに「消費者の安全の…」という農家がいるが、それは高く売れるからである)
消費者は顔を見せないで、生産者が顔が見えるという一方的関係でいいのか?
並べられた商品は、畑のモノでしかない。畑にモノが無かったら、何もない
当たり前だが、それで客は生きていけるのか?
食糧は、有るときだけ食べて、無かったら食べなければいい、と言う事にならない
保存食など並べても、新鮮なモノを求めるためにくるのだから客はこない。
それで、青果物の流通は、良いのか?

それに映像文化の影響もあるだろう
テレビが様々な情報を流す。
ラジオは創造力を豊にするが、視覚に訴えるテレビは直接的である、
テレビを見て「この商品が欲しい」という欲求は、消費者ニーズと言う言葉を生んだ。
大量につくられコストが下がり、消費者に届けられた
「安くて良い物」という言葉が作られ、画一した商品で埋め尽くされ、会話する必要がなくモノが選べる

 農産物でさえそうである。ある試験場の研究員が独白していた、
「各地にある地大根を、青首大根一色にしたのは、わしらの責任だ」
文化を金にして売り払ったのである。

なんだか貧しくないかい?

会話が無い。商品は画一化。
文化や地域が劣化したのは、流通のせいではないか?

もともと流通は生産者を育て、客の要望の一つ一つを聞き
的確にモノを薦め、商品を円滑に流す、
そこに存在価値があったのだと想うのだが…
だから接している人の信用(安心の関係)が、大事だった
○○屋は、そこに住んでいること自身が安心の関係だったのだ

今「食の安心安全」と呪文のように唱えているキャスターが多い
テレビやマスコミ自身が信用できないのに…
「おまえに安心なんぞ、いわれたくない」と想うのだが…

安心とは、関係性の世界なのだ
その関係性のキッカケが、blogで作れるか?

マスゴミ

ある虚偽報道の疑いがあった、
そのテレビ局が流した”作為的な映像”がYouTubeに流れた
それを速攻でテレビ局が削除した
「著作権侵害」という理由で…

それなら他のYouTube映像も、ニコニコ動画も、全部削除すればいいのに…
ほとんどがテレビの画像から取ったもので「著作権侵害」だ
映像を、あわてて消すことで、ますますその放送が都合が悪かったと認めることになるのだろう
しかし、その映像はダウンロードされ、あちこちで見ることが可能である

事実は一つだが、真実は無数にある。
以前、マスコミは真実だったが、今は、一つの真実でしかない
それを「真実だ」と思う大衆が、いるだけである

消えてたまるか?

 

江釣子漬けを、漬けた。

干し大根に切れ目をつけ、輪切りにする
ようするに二枚の切れ端が、一カ所繋がっている状態に切るのである
これが大変な作業であるが、ここがポイントらしい
「早く漬かる」というポイント

それにザラメと秘伝の醤油「醤次郎」。飯尾醸造の「富士酢」、自家製のあんず梅を煮沸させる

             

魔子様が作ったあんず梅は、特大なので切り刻んで入れた

煮沸した汁を冷ましてから、切り刻んだ干し大根にかけてお終いという
後は待つだけ「すぐ食べられる」と言う

しかし、すごい智慧が詰まっている
大根に切れ目をつけて、タレを煮沸して…
保存食を、保存しないで食べられる工夫である
と思っていたら

こんなのを貰った

春に塩漬けしたフキを、塩抜きし胡麻を振り、タレを煮沸してかけたモノだという
江釣子漬けと一緒だ。煮沸したタレをかけるのは…
昔の人が、なるべく早く食べるために様々な工夫をしているものだ
とあらためて感心した

しかし、「これは漬け物ではない」と言う「惣菜だ」と
漬け物は、食品製造許可がいらない。
「惣菜」だと、生産施設に許可が必要で、多額の改造費用がかかる。

「漬け物」と「惣菜」の違いは何か?
加熱だという。
煮沸して殺菌して、冷ましてかけると「惣菜」になる

そんな馬鹿な!小役人の考えそうなことだ
より安全な煮沸という行為が、より費用のかかる商品となる
こんなんで、漬け物の”文化が消えてたまるか!

マクドナルドのロビー

「マクロビのお菓子を作った。店に置いてくれないか?」
と言ってきた若者がいる

若者と言っても30も半ばである。
話を聞くと経験は相当あるようだが
「店を持つと、そこで縛られる。あちこちに商品を置いてマクロビを普及したい」という

なるほど。

「マクロビ」というと多くの人が「マクドナルドのロビーか?」と勘違いするが
マクロビオティックという、穀物菜食のことを言う
難しく言っているだけで、昔の…食事だ
昔というのは、お殿様が統治していたころだ
明治に入って、欧米流の食文化が入ってきて。現代日本人の体格は飛躍的に良くなったが
それに連れて、体格だけ良くなって、体調が悪くなった。
つまり成人病などが、どんどん増えてきたのである

それに対する警鐘なのだろうか?
本来の日本の食事、穀物菜食が注目を浴びるようになってきた
別にそれを否定するモノではないが…
肉食も否定しない

亡くなった栄養学者の鷹嘴テル先生は、長寿の村の研究で身土不二の食事を提案したが
ある講演会で
「先生!私たちは、何を食べればいいのですか?」
と問われ、”返事に困った。”と言う
流通が進んだおかげで、周りにあるのは海外からの穀物や肉、他から運ばれてきた野菜だらけの世の中である
そこで鷹嘴テル先生は。「娯楽食」という考え方を打ち出した「心の栄養」である
「身体にとって良い地元のモノと、楽しみに食べるものとのバランスが大切である」と

小生は、この考え方に共鳴する

しかし、このマクロビのお菓子は、ちょっと高いのだが…
これを一袋300円〜350円で買う人が、今の盛岡にいるのであろうか?
それが問題だ!

金庫に札束

もらい物が続く
やはり「還暦だ」「誕生日だ」と騒ぐべきだろう

  

陸前高田から、醤油が…
島根から、種なしゆずが…

    

秦野から、みかんが…
日本兵から、熊肉が…

山形村から焼酎まで…

そういえば、極悪和尚から空の重箱まで貰った
んっ!これは返却か?

 

いずれにせよ、これは無償の愛である
まさかお返しを期待しているのではないだろうな?
それとも物々交換だろうか?

哲学者内山節さんの話によると
「ある村では、冠婚葬祭のお返しに野菜をあげる。
”あそこの畑は、まだ人参が出来ていないから、人参を…”
そのお返しに
”あそこの畑は、白菜のできが良くないから白菜を…”
そのお返しに。
”大根がまだのようだから、大根を…”
と言って7〜8回繰り返す。
そうすると村中の食料が平均化する」

と言う
なるほど、昔は畑が見えていたから、足りないモノが分かったけれど
今は家庭の冷蔵庫がみえない
足りないモノが何か?分からないから、中元・お歳暮は見栄えの良い物を贈る形になるのか?

う〜ん!
うちは金庫に札束がない。空の金庫を見えるように開けておかねば…

早く読まねば…

本が届いた。
アマゾンのマーケットプレイスからである。送り主は「猫猫屋」と言う
けったいな名前や!猫好きにもほどがあるというモノだが…

写真は単行本のように見えるが、文庫本である。
2000年の10月10日に発行された771円の本である
(税別だから当時3%で税込み800円の本)
それを1790円に送料250円で入手した(合計2040円)

「希少本であるから」と言う理由だった
これなら小生が金が無くて単行本を買えなかった文庫本の蔵書が山のようにある。
ひょっとして販売したら、宝くじが当たるより、すごい金額になるかも知れない
 

「本屋にぶらりと入って、気に入った本を手に取り、立ち読みしながら買い求める」
と言う暇つぶしというか、趣味と言うが、最近そんな時間が無くなった。
忙しい世の中である。
そんな世の中に誰がした?と言う問題を解決する道筋の本である(?)

オランダのジャーナリスト、カレル・ヴァン・ウォルフレンの著書である
高校卒業後、世界を放浪して62年に日本に至り、それ以後日本を観察し続けてきたという

彼の主張は「官僚を支配する政治権力を一刻の猶予もせず確立することだ」という
日本の世界に名だたる官僚制度と言う権力というシステムは、明治から始まるという
明治の元勲”山県有朋”が、
「議論好きの政治家に与えられた権力を、行使できなくなる仕組み」を導入した
それが官僚制度だという

どうりで自民党から民主党へ変わっても、何も変わらない訳だ。
と納得する本である。
まだ前書きと後書を読み、ペラペラと目次をめくった程度だ

早く読まねば…

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