ちいさな野菜畑

ちいさな野菜畑ブログ

カテゴリーアーカイブ: 生産者と共に

でん六豆

店に戻ると、机の上に大きな箱のでん六豆が置いてあった
「山形の田中さんがきて、おみやげ!
コーヒーを飲んでいった。」と魔子様が言う

懐かしい、でん六豆だ。

デン デン でん六豆〜うまい豆〜

小さな頃よく流れていたコマーシャルだった
あ〜そうか…あれは山形のお菓子だったのか?

ふと魔子様に聞いてみた

「小さな頃、デンロクマメ!よく食べたよね〜」
「知らない」とにべもなく…

ひょっとして東北だけの地域限定商品だったのか…

 

山形の田中さんは、東北農家の2月セミナーの仲間である。
いや仲間だった。
田中さんはとっくに…小生は昨年、卒業した。
もう2月セミナーは何年続いているのだろう…
最初に出かけたのは平成6年の11月か…12月の八戸だった。
当時「二月セミナー」と言う名前ではなく、
農山漁村文化協会(略して農文協)主催の「中期講習」という名前だったような気がする。
それが予算不足で農文協が主催を降り、参加していた人たちが
「会費を出し合って自主的に続けよう」「毎年2月に…」
「講師の内山さんには、謝礼は少ないが…集まった会費で…」と言うと
「私も学ぶことが多いので参加費を出します」と哲学者の内山節さんは言う
招いた講師も参加費を出すという珍しい勉強会が、毎年2月に二泊三日で仙台で行われている

当初、農文協が主催だったので農家がほとんどだったが…
その中で農家になろうという田中さんや…農家の意識に近づこうという小生や…
農家以外の人も数少ないが入っていた
田中さんとは、長い付き合いである

そんな彼が昨年の岩泉の災害でボランティアにきたときに
「ちいさな野菜畑」という看板を見て「もしや…」と入ってきたのが数ヶ月前である
彼は、山形の有る町の社会福祉協議会に所属していた。
そんな劇的な再会をして、今回は留守をしている間に通り過ぎてしまった。

色々な出会いがあるものである。
また会えるだろう。

 

そういえば2月セミナーの仲間だろうか…
中期講習の仲間だろうか…
俵型のモナカである
通常、仙台のお土産だったら三色の白松がモナカだが…
たぶん宮城の南の方から持ってきたからだろう

 

 

種子

農業は産業ではない。
ということを一貫して主張している。

わかりやすく言えば「農」と言うのは資本主義社会による、「仕事」ではない
では何か?「なりわい」である。

生きていく上で、一番必要なものであり大切なものである。
それが資本主義社会の中で、他の業種と一緒に考えられるわけがない

車がなくても生きていける
電気がなくても生きていける
家がなくても…着るものがなくても…
つまり衣食住のなかで、とりあえず「食」べないと生きていけない。

生きていくと、寒さに耐える「衣」が必要で…
夜露をしのぐ「住」が必要で…
それら必要なものを作り出す「技」が必要で…
技を持たない人が交換する道具として便利な「貨幣」が必要なのである。

 

その食べものを作り出す根幹は、種である。
その種が資本主義社会の「仕事」という位置づけに置かれ、我々から取り上げられようとしている
本来は我々の「なりわい」だったのに…
種子法の廃止である

主要農作物の種子法という法律が日本に有る
主要農作物とは「稲・小麦・大麦・裸麦・大豆」である。
その種子は、各自治体に品種の育種開発が義務付けられていました。
それが廃止になる。
民間に移すことに寄って民間の活力が促され、経費が削減されるという目的のために…
民間の活力と言うが、民間の資本力と言い換えたほうが…
そして資本力は、グローバル経済のでは海外の大手化学種苗メーカーも含まれるのである
「(資本主義社会の)経済の活性化」である。

経済というのは「世をおさめ、民を済う」経世済民と言う言葉からきている
たぶんこの国の政治家は間違っているのではないかと思う
資本主義社会は狭義の貨幣経済と言うように取っている
「経済最優先」は本来の意味に戻らないといけない

民を済うなら根幹の種を守らないと…

種を守ろうという運動が有る。
種子法廃止に反対する運動である。

そして地野菜の種採りをしながら南部の野菜をつなごうとする若者がいる
そんな若者を応援したい。

 

 

豆蔵

得意先は、聞いた?
「どういう関係で知り合ったのですか?」

長年付き合っているが、なぜ関係ができたのか?
それが恋愛関係なのか?
愛人関係なのか?
そういう問題ではない

大黒味噌醤油との取引関係ができたキッカケである。

軽米町の大黒味噌醤油との関係は、思い出そうとして思い出せないほど深くて長い関係だ(?)
たしか…

”タイマグラばあちゃん“の映画監督の澄川さんから、
「バァちゃんが亡くなったので家に残っていた味噌を処分したい」と電話があった。
当時、野菜畑を開店して数年経ったときだった。
当時は、その映画も知らず、
タイマグラという地名も、どこにあるのか?
どこから行くのか?も知らないまま、現地に行ってみた。
そこは早池峰の北山麓だが、森奥深い丘の上の家だった。
数人の男がいた。そこに住み着いた人たちだった。
桶に味噌が入っていた。
なんだか黒ずんでいる味噌である。
「なんとかして欲しい」と請われたが…
臭いといい、見た目といい、売れる代物ではなかった。
「袋詰め、してくれれば…」と言葉を濁しながら、周辺にあった人参や馬鈴薯をもらってきた。
そのときに、岩手の豆味噌を初めて知った。
というよりも味噌には米味噌・麦味噌・豆味噌と三種類あり、岩手の県北部や山岳地帯は豆味噌の文化だと知った。
味噌玉という大豆を煮て玉にしたものを天井に吊るすのである。
そこに麹菌が着いたものを天井から降ろして塩と一緒に漬け込むのである。
いろいろな人から聞くと、豆味噌は岩手県と愛知県の八丁味噌ぐらいしか無いと言う
そして残念ながら味噌玉を天井に吊るすのは、不特定多数の人に販売する生産方法として認められていない。と言う

当時タイマグラの民宿フィールドノートでは、ばぁちゃんから教わった味噌玉をつくりながらお客と一緒に味噌を仕込んで分け合っていた。
フィールドノートの味噌仕込み

フィールドノートのように個人として仕込むのは構わないが、
野菜畑のように不特定多数の人に販売するのは駄目だという
そこで入道は悩んだ。
なんとか豆味噌の文化を残さなければ…

そんなときに軽米町の古里斉が「おらほの味噌屋は、豆味噌を作っている」と言う
それなら、それを扱おうか…と思って大黒味噌醤油の豆味噌を販売を始めたのである。
しかし、その豆味噌は、もう一つ売れなかった。
味がしょっぱいのである。それと豆味噌特有の香が気になった。
とりあえず並べてはいたが…

そんなときに10年前になろうか…
秘伝シリーズの商品開発が始まった。
とりあえず味噌のラインナップは、
「米蔵」米味噌、
「およね」20割米麹味噌(秋田で言う高級味噌)
「豆蔵」豆味噌
の三種類を作った。

こびるコーナーだった、食堂部門は「こびる食堂」に格上げして
味噌汁は豆蔵に一本化した。
なぜなら豆味噌特有の香が出汁と相まって何とも言えない豆の香となって生き返ったのである
そして塩っぱさも、量を調整することで解決をした。
かえって使用量が少なくて済むという節約効果をもたらしたのである。
それでも自信を持って販売しているのは、ここ三年ぐらい前からである。

それまでは豆味噌は岩手の文化だと言いながら、
「時代の流れか…」と味噌汁を飲まない若者や、ご飯を食べない家庭、
和食を遅れているというような洋食珍重文化などで強い気持ちを失いかけていたのである

やはり地方は豊かな自然に恵まれた必然性の食文化を掲げないと…
米の取れない岩手は、豆味噌であった。

軽米町の大黒味噌醤油では。今は夏はオフシーズンである。
冬に作った味噌の発酵を促進し
夏を越した味噌を袋詰にしている作業の真っ最中であった

100年以上使用している木桶
もうタガを締める人はいないという
納豆を食べた人は入れない麹室
29年2月に仕込んだ豆蔵出来上がりは夏超えした10月頃か…

いもち

滝沢の武田哲が、米の納品に来た。
合鴨農法の無農薬の米は、武田哲である。
なんと言ったって、安心感が有る。
「倉庫を見に行ったら在庫がなかった」ということは一度もない。
一度有ったが…
“家の人が、勝手に別の産直に出荷していた”と言う

まぁそれと、ある程度の量をやっているので融通が聞く。
そういう意味で、長い付き合いである。
本来は、量を多めに引き取れば良いのだが、米用の保冷庫が小さいのと、
市会議員をやっている彼は忙しいのに、その合間を縫って、たびたび足を運んでくれる
彼も、さまざまな問題を話す人がいないのかもしれない。
こちらも、さまざまな情報を得るのに好都合なのだが…
そして彼は、支払った米代金で、いつも大量に買い物をしていってくれる
そうなのである。産直という仕組みは、地域循環の基本なのである
多くの農家が産直の売上金をもって、大きなショッピングモールのイ○ンへ買い物に行く。
産直の意義を、わかっていない農家が、ほとんどなのである。
行くなとは言わないが、もうすこし考えて行動してほしいのもだ
地元の人が地元の産物を買って、経済を循環させようという試みを
一生懸命、中央に吸い上げられる仕組みに加担しているのである。
おまけにイ○ンの産直に客が多いからと言って出荷している農家もいる。
単に利用されているだけなのだが…

循環の仕組みをわかっている彼は、いつも閉店間際にやってくる。

今日も6時までの保育園の迎えに行く間際にやってきた。
「どうだね米は…」
低温の日照不足で、米の不作が伝えられる。
心配して聞いた…
「私の田んぼは、まだましですが、雫石は、ひどいですね…
あちらにも田んぼが有るのだが、周辺の田んぼは、相当”いもち”になっています」と言う。
「まぁこの雨で洗い流されたら良いのですが…」

「いもち」である。
低温で登熟や受粉を心配していたが、「いもちがひどい」という。
「いもち」は菌である。
浮遊して稲につき、葉の中や(葉いもち)穂の中(穂いもち)に入り込み細胞壁を破壊するという
減収だけでなく、食味にも多大な影響を与えるという

30年近く前、農業の世界に入った当時。
「いもちが、蔓延」と言うニュースを見た。
実感がわかなかった。
当時は、岩手山麓の玉山で稲作を合鴨農法で始めた時期だった。
「いもちってなんだろう?」というのが率直な感じだった。
農家の仲間と関東に稲作の勉強をしに言った。
そこには赤い田んぼが広がっていた

”いもちにやられた田んぼだ!”と言う。
なんの圃場か?小麦か?と思ったが、稲作だとは思わなかった。
農家の仲間も「初めてみた。」「驚いた。」と一様に言う
一緒に行った農家は、みな西根・玉山の農家である。
後から調べてみると、稲の大敵いもちは、通風を良くすることによってふせげると言う
菌を吹き飛ばす風が必要だという
つまり西根・玉山は、岩手山麓の吹き下ろしの風が、自然に吹く地帯である
だから「”いもち”を、見たことがない」と言うのである。

なるほど!コレを逆手に取って…
稲の大敵「いもち」が発生しない岩手山麓で除草さえできれば、無農薬米が可能だ
と初めたのが、合鴨農法である。

ところが場所によって谷あいや山陰などのところで空気が淀むところはいもちが発生する。
雫石は奥羽山脈や、低い連なっている山が風の流れをせき止めるので空気が停滞しやすいのである。
適地適作と言うが、地域にあう農法が必要なのである

ところが「合鴨農法で無農薬で作ろう」という西根・玉山の生産者は増えていない
当時、岩手県北部は火山灰土でリン酸の吸収が悪いため食味がよくなく、低温で生育に問題が有るので「政府米地帯」だった。
ようするに収穫さえすれば、すべて政府が買い上げる地帯だったのである。(岩手県北部。青森・北海道は…)
工夫しなくても、つくれば買ってくれる所があれば、煩わしいことはしないのである。

積算温度

天候不順である。低温が続くという。
稲は出穂から800度で登熟する。
品種に寄って800度から880度と差がある
ようするに積算温度とは、平均気温{=(最高気温+最低気温)➗2}の足し算である。

 

8月5日に稲の穂がでてきてそれから平均気温20度が25日続くと500度
9月に平均気温が15度が20日で300度
刈り取り適期は9月20日となる。

通常、8月の平均気温は岩手の場合25度ぐらいで9月は15度ぐらいだから
(ばくっとであるバクッと)出穂が8月10日でも9月20日ぐらいである

それが温度が低いと登熟まで時間がかかり、品質が悪化する。
93冷害と言われる1993年の大冷害は、岩手県北部は積算温度が800度もいかなかった。
つまり登熟しなかったのである

みのらない稲だった。

寒さの夏、平均気温がいくらになっているのだろう
今年も、おろおろ歩くのか…

 

翻訳希望

学生時代の就活で、商社に決まった時、慌て英字新聞を取り始めた。
英語は、中学一年から習っている。
読むのは、得意である。
しかし、書いてある文章の意味は不明である。

要するに英単語は、想像しながら発音できるが、意味は辞書を引かないとわからない。
恥ずかしながら、中学・高校・大学と10年間勉強して、その程度なのである。
だから就職が決まってから、23歳で中学生用の英字新聞から初めたのである
たしか…毎日ウィークリーだったような気がする。
それでも、なんとかなった。
就職した商社は、繊維専門商社だった。と言っても半分は非繊維部門があった。
英語ができるやつは、繊維貿易や鉄鋼や食品、化成品などの非繊維部門へ。
英語は喋れないが、関西弁がペラペラの口だけ達者なやつは、繊維部門と言う配属だった。(だろう?)
なんと言ったて関西弁は、繊維業界の公用語なのである。

東北弁と関西弁と標準語と、三つの言語を自由自在にあやつり、
ときおり片言の英単語と、飲み屋で使う中国語を駆使するバイリンガルの小生は、
英語を使用しない繊維部門へ配属された。

何度も英会話に挑戦したが。一度アメリカに行ったときに
ホテルのフロントで、レンタカーを借りた。
レンタカーを置いてある場所を尋ねると
そのフロントのホテルマンは
「ホテルグランツ! ダウンステア! ターンライト!」と言う
ようするに
「階段を降りて、右へ曲がったところに、ホテルグランツがあるから…」
ホテルグランツと言う旅館の隅にでも車がおいてあるのか?と思ったら
そこへ行くと「Garage」があった。
そのホテルマンは、ドイツ系アメリカ人で「Garage」をドイツ訛りで発音したのである
そのときに、きっぱりと英会話を習熟することを決別した。
現地に来なければ、会話に慣れないと…(泣)

だからそれ以降、常に英語とは関わらない、ちがう世界に生きてきた。
それなのに、若い女性から、「この新聞を読んで!」と貰った。
ジャパンタイムスである。
社会人になったときに、同僚の非繊維部門のやつらが、
みんな小脇に抱えて電車の中で、これ見よがしに読んでいた新聞である。
その日刊英字新聞ジャパンタイムスという全国紙に、田野畑山地酪農研究会が、大きく取り上げられていた。

見出しは Grassfed cows making slow but steady progress, delicious milk

「ゆっくりとした着実な進歩を遂げている草刈り牛、おいしいミルク」
グーグルの自動翻訳サービス。無料だからこんな程度なのか?

 

草を喰む牛は、ゆっくりと着実な歩みで美味しいミルクを作り出す。

記事の内容は、不明である
だれか?翻訳希望!

盛岡の幸せ

冬は湯豆腐・夏は冷奴
コレが夕食の定番である。
何と言っても、それ以上腹に入らないのである。

 


朝出かけるときに昆布を一枚、鍋に放り込んで水を入れる。
帰ってきたら、とりあえず鍋に火を入れて煮立たせる。
そこで火を止めて、豆腐を半丁。5分。
5分の間に薬缶で湯を沸かし、熱燗を…
5分立ったところに、熱燗と湯豆腐が揃い踏み
熱々の燗酒と、ほろほろの湯豆腐が出来上がる

コレがスムーズにいかないと、一日が終わった気がしない
イライラして人に当たる(摩子様のときが多い)


朝、木綿豆腐の三分の一を、奴専用の丼に入れてラップをして冷蔵庫に入れる
帰ったら、おもむろにラップを剥がして、その時々のドレッシングを取り出し
ドレッシングは凝る。

岩塩にオリープオイル
オイスターソースに青じそ
梅酢にいりごま
玉葱とホワイトソース
ベーコンと黒胡椒
……

そして缶ビール(発泡酒とも言う)のプルトップを引き抜く

コレがスムーズにいかないと、一日が終わった気がしない
イライラして人に当たる(摩子様のときが多い)

二人暮らしだから当然魔子様しかあたり用がない。

 

年間に豆腐を多分180丁は食べるだろう

朝食にも…
店の昼食にも…
テーブルに豆腐が上がる場合があるから…

 

盛岡は豆腐の消費量が日本一だという
それは300g計算で年間100丁食べるという

小生のは田楽茶屋の木綿豆腐だ
田楽茶屋の木綿豆腐を知ってるかい?
なんと450gあるのだ
それがなんと140円という、すぐれものだ
それを年間180丁だから、300g換算だと…
いっぱいだ!腹いっぱい!

そしてすべて手づくりなのだ
だから時折、固かったり柔らかめだったりすることもある
それはタマ母さんの愛嬌で、カンベンだ

 

だいたいが豆腐が手づくりでなくて、何が子作りなのだ(意味不明)
昔は町内会に一軒、豆腐屋が有ったのだ。
昔、高校生時代に住んだ北上は、学校へ行く坂道の途中に豆腐屋が有った
今の盛岡にも、ラッパを吹いて自転車に乗っけて売りに来る豆腐屋がいる。
そんな身近な豆腐屋が、都会には無いという

なんと不便な…なんと暮らしにくい場所なのだ。
隣に豆腐屋が有る幸せ。盛岡の幸せである。

そういえば湯豆腐に敷いた昆布を、魔子様は「冷凍で取っとけ」と指示された。
そんな冷凍昆布を、鰹節と煮て御飯のお供に…

日本酒と醤油と豆板醤で辛めで煮詰めてビールのお供に…

盛岡の夏の幸せである。

あいがも

軽米の古里がやってきた。
町名といい、名前といい、いかにも地元の人と言う名前だ。
軽米町は、その名の通り軽いコメが取れるところだと聞いたことがある。
なんでも土壌のせいで軽くなるというのだ。
米は千粒重と言って「1000粒で何グラム」と言う重さの基準がある。
それによって充実度を判定するという。
酒造好適米という酒米は25gから…飯米は20g前後
酒米は削るから重い米でないと耐えられない(?)のだろう

ところが岩手最北端の軽米町で作る米は、軽くなるという。
いったい、どれだけになるのか?

 

その軽米町の古里との出会いは、もう20年ぐらい前になる。
ひさしぶりにやってきた古里は、顔が丸くなっていた。
「随分、楽してるな〜」と声をかけた
「楽してないですよ。ステロイドでむくんでいるのです」と言う
「なんでステロイドなのだ」
「免疫性の難病なのです」と言う
喘息だと思って医者にかかっていたが
大病院で調べたら血液の免疫が落ちて喘息のような発作を起こす難病らしい。
よく「アレルギーだったので無農薬農法をやっております」という農家がいる
彼もそういうわけではないが、20年前から県北部で独りで「無農薬の合鴨農法」に取り組んでいる

彼とは、栃木で行われた稲作研究会で出会った。
岩手県出身者はほとんどいなくて、ぽつんと一人いたので声をかけたのだ。
それから生産や出荷も、西根町や玉山村の連中に混じってするようになった。
その彼とは長い年月の付き合いである。
今は片道2時間ぐらいの場所なので、ジャム用のブルーベリーを持ってくるしか取引はない。
彼は言う「そういえば最初はチェリーバレーでした」

合鴨農法は、九州の古野さんが有名だが、本当は富山の置田さんから始まった。
MOAの信者だった置田さんは、教祖の岡田茂吉に
「これからは安心して食べるものが無くなる。安心して食べられる物を作りなさい」と戦後に言われ無農薬・無化学肥料で稲作を始めた。
ところが一番の悩みは雑草だった。水性雑草は田んぼに水を張るとあっという間に広がる
毎日草取りに疲労困憊して家の池で休んでいると、鴨が雑草を食べる姿を見た。
「これだ!」と彼は気づいて、田んぼに合鴨を放し始めたという。
そこへ「田んぼで合鴨を放して除草している」と聞いた九州大学農学部を卒業して家業の農業を継いだ古野さんが学び、電気柵を考案して一挙に広まった。
岩手には、横浜の米屋中村商店が持ち込んだ。
安全な米を扱い、また自分でも作る中村社長のアンテナに引っかかり、それを福島の熱塩加納村に持ち込んだのだ。
その中村商店に「岩手でも是非に」と願って
自然循環農業を標榜する”いわて手づくり農場”が、岩手で最初に取り組んだのである。
今でこそ無農薬の米は、当たり前になってきたが、当時は「無農薬栽培」できないと言われていた
最初に始めた置田さんの宗教心と、古野さんの飽くなき探究心が合鴨を全国区にして
岩手では横浜の中村商店と、滝沢村一本木にある”いわて手づくり農場“がおおきな役割を果たしたのである。
もう25年ぐらい前のことである

合鴨のひなを入手するのにできたら岩手で探せないか?と探したことが有る
それが田野畑村にある食用の合鴨の育成場だった。そこの品種は“チェリーバレー”だった。
合鴨は、鴨とアヒルの掛け合わせなので合鴨という。
チェリーバレーは合鴨と言っても、アヒルが勝った真っ白な合鴨である
食用として選抜されただけ有って、食欲旺盛ですぐ大きくなり、稲を倒して歩き使い物にならなかった
それ以上に田んぼに使用後、肉にするのにどこでも潰す方法がわからなかった。
ようするに水鳥なので細やかな水を弾く羽毛をきれいに取る技をわからなかったのである。
殆どのと畜場は、鶏ばかりで簡単に羽が抜けるのである。
そんな苦労を様々しながら、そして田んぼに放した合鴨を野犬や狐の餌になったりで、絵になるのでマスコミの話題にはなったが大きく広がらなかった
当時やり始めた農家を支えたのは、横浜の中村商店が買い支えたからである。
それが中村社長が亡くなった今でも続く。20年以上になる。

仲間のその後の消息をきき
「息子が跡を継いだ」と言うホッとした表情の古里は、月に一回病院に来ると言う
30歳ぐらいの働き盛りでであった古里も、もう55歳だという
歳月が過ぎた

ゆたかさとは

「生が良いですか?」「火入れが良いですか?」と突然、若い彼は聞いてきた。

大酒飲みだが、実のところ微細なうまさの違いを知らない。
日本酒は冷なら純米酒、熱燗なら醸造用アルコールが入っていても良い。

そんな感覚だが…

若い頃、酒なら何でも良かったが…
コジャレた酒が出回る頃には、辛口が…
齢を重ねるにしたがって甘口でも…まぁまあぁ〜と、なり

今は肴に合わせて…
天気に合わせて…
酒なら要するに、なんでも良いのだ!

「生か?」「火入れか?」と言う選択を尋ねられたのは初めてだろう
彼の作ったコメで仕込んだ酒である。「与右衛門」というブランドなのだが…


彼は「亀の尾」という米を作っており、それを酒米として納め杜氏としても働いている

数年前だろうか…
彼が店に来て「夏はコメを作り、冬は杜氏としてはたらく、そんな生き方をしたい」と言ってきた。
それ以前に、彼の奥さんが店には出入りしていたのだが…
二人揃って会ったことは、記憶にない

真面目で、ひ弱そうな感じで…大丈夫か…と思ったが…
着実に有機農家で研修し、ようやく一人で田んぼをやるようになって見に行った。
ひどい田んぼだった。雑草が…
「これを物にするには3年ですまないだろう…」と思うような田んぼだった。
普通は、集落で良い田んぼは、すぐ近くの人が借りてしまう。
新規就農者には、悪い田んぼしか回ってこないのである。

しかし、彼は辛抱強く田んぼをモノにした。
そして思った通りに造り酒屋に持ち込んで酒にした。
それも昔の品種「亀の尾」である。

稲は品種改良が、どんどん進んで、食味がよく、量産できて、作りやすい品種開発が進んでいる
そのなかで「作りやすい」と言うのは、草丈が短いのも一つの特徴である
「垂れるほど こうべをたれる稲穂かな」という言葉は、実のたっぷりはいった稲穂の表現であるが、入りすぎると倒れるである。
倒伏は、モミが発芽して、米にならない
だから試験場は、草丈の短い米を開発しているのだが…
それにともなって草丈の長い昔の米を作りこなす技を持つ人が少なくなった
作りこなそうという気概を持った農家も少なくなった。

彼は草だらけの田んぼで「亀の尾」を作りこなした。
その「酔右衛門」である。

生でも火入れでも良いのだ…

暑い定休日、締め切った精米室の掃除をして汗をかき
シャワーを浴びてグラスで一献

あの雑草だらけの田んぼを思い、
数年前のひ弱な彼が、たくましい身体になって作った酒を味わった

「豊かさ」とはこんな事を言うのであろう

定休日の夕方の幸せである

売れ残ったら食べて!

あちこちで「採算」というか…
「原価計算」というか…
「それで合いますか?」というような言葉を聞く。

「売値と原価」があるから、それは合わせなければならない
合わせるというのは、原価+経費=最低売値である
本来は原価+経費+利潤=適正売値が望ましいが…

 

ところが新聞報道で、ビールが上がると言う情報を聞いた
なんと酒販業界では原価+経費>売値という計算が有るのだという

その酒販業界の売値計算は
原価+経費=売値+メーカー補助金
と言う仕組みらしい

ところが農業界も
原価+経費=売値+農林省補助金で成り立っていると言っても過言でない
しかしそれは大手農家(販売農家という=農産物を販売を主とする農家)だけである。

 

殆どは中小の兼業農家であるし、補助金と言っても微々たるものでしか無い
なぜ!それをやっているのだ?と問うと「なりわいだから」と言う

以前、その中小規模の農家は「三ちゃん農業」といわれた。
ようするに、父ちゃんは外へ金を稼ぎにいき
のこされた「爺ちゃん」「婆ちゃん」「母ちゃん」の三人が狭い農地をこまめに耕して自給しながら、兄弟親戚へ米や野菜を配っていた。

そこには現金を必要としなかった。
つまり原価計算を必要としない世界があった
父ちゃんの現金で自分たちで作ることのできないものだけを購入していた

 

ひょっとしたら、それがこれからの地方の中小企業のあり方かもしれない
つまり家族経営である。「家業」であり「なりわい」である
単純に金銭を必要としない生き方をしないと、地方での生活は厳しくなる

なぜなら今の時代、十分な収入をもたらす仕組みは大企業にしか無い
大企業が地方に、新しくできるはずがない。
(大企業が進出し、社員を地方都市で雇うのだが…少ない。後は給料に格差をつけられた現地採用社員という仕組みである)
某大手の○○○ショッピングモールは、社員は少なく、ほとんどがパートである。
ショッピングモールは、地方から都市への巨大な集金マシンと言っても過言ではない
あとは「安定」と言う名の(過酷な?)公共事業団体か役所である。

 

そうすると農業(自給食料生産)をベースに、ある程度の金銭収入を得ると言う生き方が面白い。
つまり自給自足をしながら、少額の現金を稼ぐ。
または、さまざまな仕事を組み合わせて一人前の収入にする。
(江戸時代、農山村は、不作に対応して自由な発想でさまざまな稼ぎの道を作り出したと言う)

都会では、すべて金で解決する。
金さえあれば安泰である。きちんと収入が安定していれば…
田舎では、農地さえあれば安泰である。身体さえ丈夫であれば…
地方では、人間関係さえできていれば、安泰である。周りの自然にも助けられる。

今、岩手は、山菜のシーズンである。
山に入れば、いくらでも食べものが生えている。
そして、こういう商売をしていると
「売れ残ったら食べて!」と言う、温かい生産者が多い。
だが、食べきれないのだ…(泣)

 

カテゴリーアーカイブ: 生産者と共に

1 / 3912345...102030...最後 »