ちいさな野菜畑

ちいさな野菜畑ブログ

カテゴリーアーカイブ: 我が家の四季

体風10号

三連休の中日、それは突然起きた。

当然のこととして目覚めて朝、トイレに行く。
利尿剤を飲んでいるので頻尿なのである。
というよりも飲んでいる意識がない。
何と言っても三つの科から出されているクスリが10種類もあるのだ。
だから、その中の一つが利尿剤なのである。

睡眠時無呼吸症候群でシーパップを付けて寝るので、寝るのはあっという間だ。
しかし、起きるのもあっという間だ。
早く生活時永久無呼吸症候群にならないのか?と思う、今日このごろである。

そんな話を書こうと思っているわけではない
トイレから帰る途中、脱衣所を通り洗面所、クローゼット。玄関、温水製造装置部屋、居間、食堂、キッチンを通って、朝の珈琲を淹れようと湯を沸かし始めたときである。
(ウサギ小屋の自宅は、トイレとキッチンの距離は、3メートル前後である。要するにすべてが凝縮している家である)
ついでに母のみそ汁用に「瀬戸内海のいりこ」を、昨晩からいれてある行平にも火を入れた。

なんだか右足が生暖かい。
ふと足元を見ると、なんと血の海ではないか?
見渡した。
歩いてきた道のりの途中から、血がポタポタ落ち始めている。
何だこれは?

ふと左足のくるぶしから、蛇口からでる水道の水のように勢い良く血が吹き出して右足にかかっている。
「ウォー!これは血だ(当たり前だ)」

水流が…(いや血流か…)10センチぐらいまっすぐ飛ぶ。
散水のとき、ホースの先をつぶして遠くへ飛ばすような感じだ
笑ってしまう。

またか?
一年前、運転している最中に起きた。
飛び込んだ鍼灸院は「うちでは対応ができない。」と言って
「かかりつけの病院へいけ」と指示された。

今回は落ち着いて処置できた。
とりあえず近くにあったタオルを蛇口のところにあてがって…
それを抑えて歩く。
これはアクロバットのような歩き方である。
左足首を右手で押さえながら、三メートル歩け!ということである
人には見せられない…
第一こんな格好では歩けない。
ようするに這いずり回ってる感じだ。
とりあえずバンソウコ。タオルを巻き付けて止めないと…
バンソウコを置いてあるクスリ部屋の扉を開け、バンソウコでぐるぐる巻きにする。
あっという間にタオルが血だらけになり、こんどはガーゼとバンソウコで止め、その上からタオルを…
そんなことをやって部屋中、血だらけにしてる間に、魔子様が起きてきた。

「どうしたのあんた!」と優しい言葉かと思ったら、厳しい叱責の口調。
居間・食堂・キッチンと血の海を見つめて「どうすんのよ」と言いながら拭いて回る。
手際の良い魔子様は、あっという間に拭き終わる。
”居間食堂キッチン”も凝縮してある部屋なのだ。

「とりあえず病院に送っていけ」と魔子様に命令する。
よく考えてみたら、店に行って自分で運転して救急センターへいけばいいか…
タオルを巻き付けてその上からレジ袋かぶせ、裸足で車を運転する。
店に行き病院セット(保険証。お薬手帳・診察券・予約票・検査データー等々)のバックをもって救急へ行った。
三連休の中日の日曜日の早朝6時30分、客は二組、守衛が一人、事務は二人。空いていた。

対応した看護婦は、どんな状況か聞きに来た。
「止血だ止血。止まらない。水道の蛇口のように飛び出す」と口頭で説明する
わかったような顔して戻っていった。
そして待たせること15分。
若い研修医の部屋に招かれた。
「とりあえず傷口を見ましょう。見ないと話にならない」
「血が飛び出しますよ」
「見ないと…」
恐る恐るタオルを剥がし、ガーゼを徐々に広げると…
止まっていた。
「あっ!止まっている」といった途端

ビューと血が吹き出した

研修医と看護婦は「本当だ!」と言って飛び退いた。
「冗談だと思ったら本当だった」二人で口をそろえて言う。
「こんなの初めてみた」

そして「これは…」と言いながら「要相談ですね」と言いながら奥へ消えた。
しばらく待たせて先輩の研修医が現れた。
溜まった血が、なくなってきたのか…
水流(血流?)は細くなり、ダラダラと濃い血が流れて止まった。
先輩の研修医は「静脈の血ですね、糖尿で皮膚が再生できず、かさぶたが治らないのが原因です」と言う

左足の踝(くるぶし)のところの瘡蓋(かさぶた)が一向に治らないのである。
そこへせき止めていたのが体液が、瘡蓋が破れ一気に崩れ落ちたようなものである
台風10号の岩泉のようなものである。

破れた後は、すっかり体液が抜けてきれいな色の足になった。
それまでは、むくんだドドメ色の象の足だった。

めでたしめでたし

店では魔子様が、客に言い訳をしていた。
「すいません今日の朝定食は、店主が病院に行っているので、玄米が炊けません。昼には出来ますので…」
「朝定食の玄米を食べにきたのに…」と言って帰った客もいるという…

ゆくすえ

孫との会話

「いいか、おじいちゃんとビールを一緒に呑もうな?」
「そうだ、小学生になったら、一緒にビールを呑もう。
中学生になったら酒だな!冷酒だ!
高校生になったらウイスキーだ。
ボウモアと言う旨いスコッチが有るのだ。
それをすこっちだけ!なんて…おじいちゃんギャグだ…」
「おじいちゃんは、中学生の頃、日本酒を飲んだのだから…」

寺の孫との会話

「いいか、入道が亡くなったら、一生懸命お経を上げるのだ。」
「お前のお父さんやお爺ちゃんは、タバコばっかり吸って上の空でお経を上げるから…」
「そうだ、般若心経も唱えておけ、いつ宗派が変わるかかも知れない。
賛美歌も唄えるようになったほうが…
いつ宗旨が変わるかもしれないかれ…」
「なんでも垣根を取り払ったほうが、身のためだ…」

 

他の孫との会話

「いいか、お父さんとお母さんに精一杯甘えておけ」
「なんせお前が結婚したら。
多分…自分の両親と、相手の両親と…、4人の面倒を見て、
老人ホームは満杯で、家で4人を見るような生活になるだろうから
今のうちに、元を取っておけ」

 

 

母の朝食

ある会合に出た。

会合に出ると、ほとんど自分よりも年下である。
仕方なく自己紹介で年齢を言う
それは「年上だから尊重しろよ!」という意味ではない
「年上なので、新しい言葉を知らないから、わかりやすく言って欲しい」というお願いなのだ
そして「若い人の考え方や風潮を勉強している」という意味もある

そこで二人の子を持つ若い母親が、連れてきた自分の子どもたちを見つめて言った。
「この子達の食事を、これからず〜っと作らないといけないと思うと憂鬱になる」

”えっ!”と思ったが…
そういえば魔子様も新婚のときは「子どもはいらない」「料理は苦手」と言っていた
それがあっという間に「旦那はいらない」「弁当は得意」という風に変わってしまった。
すべて”子どものため”である。
女性は変わる。変わらないのは男かもしれない。

しかし、料理は面白い。
と言うか…母の朝食を作ることを始めた。
今までは、”朝食をそんなに食べない“と思い、
スープぐらいだったのを、きちんと朝食にしたのである。

最初はパンが好きだという母親のためにパンと生野菜サラダにスープだった。
パンはライ麦パンやハード系のパンなどにチーズやハムを挟んで…
ところが残すことが多い。
パンが好きだというのも、菓子パンのようである

しかたなく、玄米に変えたが玄米は残す
すこし固かったようだ。

最終的に基本は、白米と味噌汁、野菜と玉子焼きに魚、煮物にした。
90歳の母は、ほとんどきれいに食べてくれるようになった。
だんだん幼い頃に戻ってくるのだろう
やはり昔食べた食事がいちばんと言うスタイルになった。
いや昔食べた食事の、豪華版だろう

白米をたらふく食べられる時代ではなかった。
味噌汁も具は、豆腐か青菜に限られていた。
野菜も、ホウレン草やキャベツぐらいで、品種もそんなに無い
魚だってほとんどが塩びきと呼ばれる”塩漬けの鮭”ぐらいだろう
“塩びき”がつけば良い方で、卵などめったに食べない。
納豆は漬けた青菜を増量して、醤油をたっぷりかけて食べたようなものだ。

そういう意味では「胡瓜・トマトの生野菜にドレッシング」
「キャベツ・人参・ピーマンのオリーブオイル炒め」
「蒸し野菜」など豊富な野菜料理と、まるまる一個の卵を組み合わせた朝食は
戦前からみたら豪華な朝食だろう

母は、いつも言う
「こんなにしてもらって、ありがとう」
どうやら、母の弟(小生のおじさん)と間違えているようである
喜ばれる。それが作ることが好きになる一歩である。

若い頃、髭を生やしていた。
そうなのだ

若く!優しく!見られていたので、
少し大人に…
少し怖く…

見せたいと思ったのである。

一番最初は、学生時代だった。
ラグビーをやっていた頃
対面(トイメン)に恐怖感を抱かせようとしたのである
いまなら素顔でも十分だと言う人もいるが(泣)
当時は、ぼっちゃん顔だったのである

二回目は、商社時代である。
商売は迫力だ!という時代で…
“相手に勝つ”という顔が必要だった
しかし、顔よりも、言葉が必要だと強く認識した。
(関西弁の迫力である)

辞めたあと、新しき会社でまた伸ばした。
写真は30代なかばのころ

素顔は迫力のない顔である

しかし、どんどん膨らんだ顔が、年とともにしぼんで来た。

若い頃は、年令を重ねたら
太った豚よりも、禿げたソクラテスになりたい

と痛切に思った。

 

「40を過ぎたら顔に責任を持て!」というコトワザがあるが
このごろテレビでは
「60を過ぎて責任のなすり合いみたいな顔」が跳梁跋扈している
これでいいのか日本は!

ニュースをみながら、
顔を変えようか…
禿げたソクラテスに、髭は似合うだろうか…
しなびた顔に…

テープレコーダー

今日は母の誕生日だ。7月4日、干支はうさぎである。
アメリカの独立記念日である。
もう満で90歳になる。
認知症であるが、見た目はそんなふうでもない

しかし、テープレコーダーである。
同じことを、1分おきに繰り返す。ちがうことを喋ったとしてもいつのまにかもとへ戻る。
しかし、テープレコーダーも、今の時代、誰も知らないのか…
中学生の頃である。テープレコーダーを家で買った。
パソコンのプリンターぐらいの大きさ(?)と言っても年々小さくなるから、大きさを伝えるのは難しい。

有るグループで「ダウンサイジング」という言葉が飛び交っていた。
多分小さくすることを意味しているのだろうと思うが、モノを小さくするということが、大きな金儲けにつながるのだろう
小さくすることで数多くモノを置けるので一杯買えるということだろうか
そういえば八百屋では、雨の日に大きな野菜(キャベツ・白菜など)の値段を高く設定すると言われた
雨の日は傘を持つから大きなものを買うと数を買わない。一人あたりの単価が低くなる、と言う

それと一緒か?

話が、どんどんそれた

 

それで母の誕生日だ。
親兄弟の誕生日は、全て知っている。
そういえば干支も知っている。
自分の子供も…

祖父母は知らない。姉妹の伴侶も知らない
孫も怪しい。

やはり一緒に暮らして誕生祝いをして
それが質素な料理でも、貧しいプレゼントでも一緒に暮らしたアカシなのだろう

それが家族の誕生日も…
親の干支も知らないという人が増えた。

家族のつながりの問題なのか
あまりにも増えた祝祭日の影響なのか…

楽しいことが多いことが豊かなことではない
貧しさや、惨めさや、苦しさに耐えることや、乗り越えることも人生を豊かにすることではないか…

もう今は90歳の母と、じっくりと想い出を話すこともない。
たぶん書道と出会った60代70代が一番幸せだったのかもしれない
そのことだけをテープレコーダーのように繰り返す。

 

百花繚乱

クロッカスが咲き、水仙の蕾が膨らんだ!と思ったら
庭の草花が一斉に咲きだした。

いよいよ岩手は、百花繚乱の春を迎える

 

タンイン

むくんでいる。
以前は、体全体がむくんでいた。
体重は三桁を超えていただろう。
それは、むくみじゃなくて「単なるデブだ。」と言う人もいる。
あたっているかもしれない。

6年前に食道を切除したために、食べものが入らない。
今まで食べ放題、飲み放題を生きがいとし、心の拠り所としていた生活から一変した
一挙に66kgまで減量した。ボクシング選手もこうはいくまい。

学生時代は、朝から晩までグランドを走り回った。
正確には午前中はグランドを…。午後は借金返済のために走り回った。
それでも70kgだった。

一年ほど前、10kg太った。
たった4日間で…
驚いて病院に行った。身体に水分が溜まっていると言われた。
「利尿剤を呑め」と言われた。
「この利尿剤は効く。効かない人もいるが、効かない人は死ぬ」
「効くか?効かないか?入院して確かめたい。」
と医者は言う。
その利尿剤は、劇的に効いた。
あっという間に70kgを割った。
医者は
「体重調整して72kgを超えたら利尿剤を飲むように…」と指示された。

三週間ほど前から72kgを超えた。
”やばい”と想ったが、利尿剤を飲むと頻尿になるというので飲まないようにしていた
メクラの鍼医も「少し待ったら…」とアキメクラの患者に言う
そのうちに75kgを超えた。
じわりじわりと増えていく。
息切れがしてきた。
足が棒のようにふくらんでむくんだ。
足首も、足も曲がらない。
おまけに借金でクビも曲がらない。

やばいか…と思った。
仕方なく利尿剤を呑んだ。
体重は減った。74kgだ。
しかし、それ以上減らない。
メクラの鍼医は「おかしい。おかしい」と言いながら治療をした。
ある晩、ハイボールを呑みながら口寂しくなって南部せんべいを口に入れた。
口中で粉々にして飲み込んだのだが…
その煎餅の粉が、気道に入ったようだ。
咳き込んで出そうとした。なかなか出ない。
寝ている間に出るだろうと眠った。
しかし、咳き込んで眠れない。
たまらないようになって、起き上がったとこへ体内から盛り上がってくるようなものを感じた。
おどろいて手のひらを広げて吐き出した。

茶碗いっぱいぐらいの透明のキラキラ光る液体だった。
粘性が有った。ネバネバしていた。
それが三回ぐらい続いた。
ようやく眠れた。

 

翌日メクラの鍼医に聞いた

「なんだ?」
「痰飲だろう!」と言う
「タンイン?」

東洋医学では体内に貯留する水分が出てくる症候だという
本当だろうか…

翌日、体重は72kgを割った。

しば

岩手にも、ようやく春が来た。
庭の福寿草が黄金色の蕾が開き、
緑の水仙が勢い良く空に伸び、
黄色や紫のクロッカスが、あっという間に花を開いた。

そんな中、シバも、おがってきた。

これはシバである。
おじいさんのシバである。
市原悦子と常田富士男の日本昔話によく出てくる。
おばあさんは川へ、洗濯に…
おじいさんは山へ、シバ刈りに…
の「シバ」である。

現代のシバは、夫婦に亀裂をもたらす緑の芝であるが…
おじいさんは、クラブを担いで芝刈りに…
おばあさんは、愛人と命の洗濯に…
と言う現代のシバは、さまざまな問題を引き起こす
これは昔話の「シバ」である。
漢字で「柴」とかく

ようするに雑木のわきから萌芽してくる若い木々のことを言う
このわきから伸びてくる柴を刈り取ってやらないと、木々が暴れる
つまりヤブになる、
それを刈り取って散髪すると武蔵野のような素晴らしい雑木林ができる、
春は、地上までさんさんと陽が入って山菜が芽を出し、夏の新緑が木々の光合成を促し、秋の紅葉を彩り春を蓄える落ち葉となる。

柴刈は、大事な山の手入れである。

橋ではなくハシ

たぶん!自分のコンプレックスは、ここに有るのだろう
と66歳も半ばの春を迎えて思った。
アクセントである。

アクセントは高低である。強弱でない。

と昨年亡くなった元アナウンサーの前田正二は書いてある。

え?「強弱」と「高低」と、どう分けるの?

そして前田正二は、強弱と高低を聞き分けられる人は、少ないと言う

本が好きで、ずっと活字中毒で生きてきた。

娘が「子供を本好きに育てたい」と言っているが、本好きにするには親が本を読んであげなければ…
と思ったら、前田正二は、「耳に貯金を…」と呼びかけている
つまり、多くの文章を読んであげることだと言う

そういえば子供の頃、母親は布団に入ってよく本を読んでくれた。
貧乏だったからだろうか…
読む本が無くなると、百科事典の歴史人物の項目まで読んでくれた。
おかげで歴史好きになり、吉川英治などの時代小説が好きだった。
ただ難点が一つ、おもいおこせば、多分「仙台弁のアクセント」で読んでくれたのだろう

小学校4年のときに岩手県北上市に転校してきた。
仙台弁を笑われた。
「まぁぜろ〜」と遊びに仲間に加わることを仙台弁でこういった。
ところが北上弁は「かぁ〜ぜろ」といい、仙台弁を
「んなぁ〜、おなごど混ざるのか?(おまえ女と混ざるのか?)」と卑猥ではないが、そんな意味で囃された。
そのころである
テレビが各家庭で入ってきて、NHKのアナウンサーのスマートな言葉が流れてきた。
当時、集団就職で金の卵ともてはやされた東北の子どもたちは、「ズーズー弁」と、からかわれてきた
小学校でも「標準語で話しましょう」と言う運動が流行った。
標準語とは「NHKのアナウンサーの言葉だ」と…(都会へ出て馬鹿にされないように…)
言葉でなやんでいた自分は、すぐに標準語と呼ばれる言葉を覚えた。
仲間内では北上弁を…
家では仙台弁を…
あらたまったところでは標準語を…
なんと三つの言葉を自在に操っていたのだ。

それから家を出て大学へ行くと、入ったラグビー部は関西弁だった。
三重や名古屋、大阪、兵庫、徳島、高知など関西地方で厳密には一人ひとり言葉が違うのだろうが
とりあえず圧倒された。あの関西弁の大声の迫力に。
必然的に関西弁と呼ばれる言葉が身につき、就職した先が繊維専門商社だった。
繊維業界は、標準語が関西弁だった。
東京にいても関西弁を使い、大阪ではもちろんコテコテの関西弁である。
大阪の飲み屋で「どこの出身見える?」と聞くと大体が「関西の人?」と言われる
それだけ染まってしまった。

盛岡に帰って気がついた
北上弁と違うことに…
盛岡のほうが、なんとなく柔らかいのである。
南部藩主の奥さんが京都から来ているせいだと、ものの本に書いてある。
盛岡の言葉も、いいものだ…

と思いながら、前田正二の本を読んでいたら

アクセントは強弱でなく高低だ。と言う
さまざまな言葉の環境で暮らしてきたために
言葉を覚えるのが精一杯で、アクセントやイントネーションまで覚えていないことに気がついた。

魔子様は東京生まれである。
いつも食事のときに小生に言う
「あんた!アクセントが違うよ。橋でなくハシ!

たぶん「こんなアクセントやイントネーションでは人前で話すな!」と神様は。言葉を奪ったのかもしれない(泣)

 

追伸:
小中高と一緒の友人がいる。いつのまにかアナウンサーになっていた。
子供の頃、北上弁で話していたのが、なぜか標準語(共通語)になっている
油断も隙もない。

3336

「品番」と言うものが、ある。
つまり管理するために番号を、つける。
品物の番号である。
(「人番」と言うのものある。人を管理するためにつける番号である。
マイナンバーとも言う。余計なお世話だ。
大人数を管理する都合のある人が、必要なだけである。)

 

以前、繊維業界の商社にいたときに生産管理をしていた。
得意先から注文を受けたものを、メーカーに発注して、
生産したものを仕入して
メーカーにおいて配送するか…
倉庫に入れて配送するか…

そのデリバリーをするのに「品番」は大切である
たいてい綿紡績(東洋紡やユニチカ…日東紡など綿を主体とする紡績)や
合繊メーカー(旭化成や帝人などの合成繊維を生産しているメーカー)がつけるメーカーの品番が普通だった。
その中で独自のオリジナル商品は、担当する商社が着けていた。
大体が機械の機種で着けていたようである。
三七インチ二六ゲージの編み機で編むニットは「3726」とか…
そうすると基本の素材は良いが、ちょっと機械の調子を変えたり、編む糸を変えたものは…
同じ3726では混同する。そうすると、ちょっとだけ番号を変える。
だから3726というと大体生地の雰囲気(幅、組織、等)が頭に浮かぶ

その他に「色番」がある。
担当していた商品は先染めニットであるから、糸染めである。
カラー番号があった。今でも覚えている。
「13番は白」「113番は赤」「2番はロイヤルブルー」「27番は黄色」と…
そのなかでも黒は「16番」なのだが、通常は”黒は、24色有る”という。
そういえばスミクロや、漆黒や薄墨とか…
そういえばテレフォンブラックというのも有ったが、ちょっと鈍い黒である。
今電話自体が固定電話の黒は無い。だからテレフォンブラックというカラーは通じないのか…

そんな品番や色番を、色々と覚えないといけなかったが
頭の悪いやつは、いつも混同していた。

その中で、今でも覚えているのは「3336」である
なんとか思い出そうとするのだが”33インチの36ゲージ”なのだろうか…
そんな細いゲージに通るのは六双(60番手の双糸)の高級番手だが…
ついていた生地は、トレーナーの袖用の横網である。
横編機の機種番号だろうか
以前、中国や韓国で縫製すると身頃と袖や首周りの色違いのクレームが数多くついた
だから、クレームがないように丸編の身頃に合わせたカラーの横編みの袖を着けたのだが…
いつも少しづつ残った在庫が膨大になって。悩んだことを思い出す

今日は、3月6日である。
そうだ!思い出した。
アシスタントの女の子に、主力商品でないので「番号をつけてくれ」とお願いしたことが有った。
彼女は「3336」と着けてきたのだ

「なんだ?その番号は?」と聞くと
「私の誕生日です。昭和33年の3月6日」だという

そうかぁ〜!あの子も、もう還暦一歩手前だ!

 

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