ちいさな野菜畑

ちいさな野菜畑ブログ

カテゴリーアーカイブ: ある日のちいさな野菜畑

ありがとう

店を閉めるにあたって、
多くの人から「おせわになりました」「ありがとう」と感謝の声や、
花束のプレゼント、珈琲、チョコレート等々多くのプレゼントを頂いた。
そして「最後に挨拶を…」と言う人達でいっぱいになった。

ふと思う。
単なる売り買いではなく「ちいさな野菜畑」は何を売っていたのだろう。
それは商品ではなく、想いがこもった売り方だったのかも…

 

哲学者内山節は、いう

「私はこれからは、農業にかぎらず、どんな分野でも、商品を半商品に変えていく関係づくりをしていったほうが面白いと思っています。そのことによって、暴力的な力を持っている今日の市場経済を、内部から空洞化させていくことができたら、私たちは今日の市場経済の支配から大分自由になることができるでしょう」
(1998年「農村文化運動148」より)

「半商品」とは、商品として流通はしているが、それをつくる過程や生産者と消費者との関係では、「よりよいものをより安く」というような商品としての合理性(経済合理)が必ずしも貫徹していない商品のこと

多忙 感謝感謝

なんと忙しいことか?
その〜間に合わないのである

なにもかも…

新聞に載ったことだ

盛岡タイムス

岩手日報

一つの小売店が消えていくのに、ニュースになるというのは良いことなのだろか?

その記事を読んでやってきたのが、多くの最後を惜しむお客様と、借金取りである(笑)

ひっそりとしまいにしたかったのだが…

さて今日一日頑張ろう。

明日は、ゆっくり寝られるだろうか?

 

おせわになりました

朝、厨房で準備をしていると、お客のおばさんが声をかけてきた
そういえば、そう見えるが漁家のおばさんスタイルだった
要するに花柄のようなレインコートの生地の上下の作業衣をきたおばさんである
おばさんには失礼だが、小生よりもちょっと年上かな?

そして唐突に「いろいろお世話になったので、これ牡蠣!」
と言って二本差し出した。
そして「山田町から、来たらいつも寄ります」という


「山田町?」「沿岸から?」「いつも?」
「お世話になったと言っても…」と問いかけると
おばさんは、うなずきながらスタスタと出ていった。

若い青年が、やってきた。
「やめると聞いたので…。おせわになりました」という
以前の取引先の営業マンだが…
お世話はあまりしていないが…
なにか感じるところが、あったのだろう
その青年に悪いことをした
一時支払いが滞ったときに、「集金においで?」とひと声かけてやれば解決したのだが
集金は別のボジションだったのだろう、しばらく営業にも来なくなって取引が途絶えた
それを思い出し大きい声で呼び止めた
「営業というのは回収してなんぼだ。できる限りちいさな金額のうちに回収すれば、大きいやけどはしない」
「あのとき集金に来てくれれば、取引は続いたのだが…」
彼は「申し訳ありませんでした」と深々と頭を下げた。

大量に白菜とキャベツを持ってきた生産者がいた
「閉店セールで30%引きをしているが、それでもこの量は売り切れない」というと
「わかりました。いくらでもいいから販売してください」と言って物をおいていった
というと別の生産者は
「おせわになりました。商品を引き取らせていただきます」と言って引き上げていった。
生産者に迷惑をかけないように、当店の手数料から値引きしているのだが、
この対応で生産者の当店との取り組みをどう考えているかがよくわかる。
こういうのが、本音が出るのだろう

 

岩手日報に出た

https://www.iwate-np.co.jp/article/2018/11/28/29794

盛岡タイムスも取材に来た。

こんなちいさな取り組みなのだが、さまざまな関係性の世界が壊れていくのが今の時代のニュースになるのだろう

寿命

いつかこの日が来ると思っていたが…
永久に続けたいと思っていたが…
さまざまなことが引き金になった。

一番大きいのは、友人たちの死と魔子さまの病気だろう。
自分自身は、50を過ぎてから、ずーっと病気がちと言ってもいいほど、病院と寝た(?)

それまでは、怪我や歯痛はあっても、風邪で寝込むということはなかった。
風邪で寝込みたいと思ったことはあったが…
病気がちの一番の素因は、30代後半の「親知らず」だろう
”出張先で痛んだら大変だから”と言われて銀座の歯医者で親知らずを二本抜いた。
それまで歯は、完璧だった。
いやキチンと揃って隙間を埋めていた。親知らずを抜いてから
知らず知らずのうちに(?)隙間が空くようになったのだろう
そこへ十分な歯磨きをしなかったために、歯槽膿漏になった。
そこから「菌」が心臓の弁にくっついたのである。
感染性心内膜炎という。
従来持っていた僧帽弁閉鎖不全症と一緒にして一種一級の障害者になった。

最初の心臓手術のときは手術室の前でストンと麻酔に落ちた。
二回目の胸部大動脈瘤のときには、手術室に入ってストンと麻酔に落ちた。
三回目の食道がんのときは、自分でステンレスの手術台に乗って麻酔が落ちた(?)

三回も胸を開き、その他に化膿性脊椎炎。腸閉塞を二回、白内障。緑内障・歩く総合病院と言われ、ときの県立中央病院の院長に「おまえは友達だ」と尊称された(?)
病歴は長いが、死亡歴はまだない(?)

そんな病気がちの自分が命永らえて、友人たちがあっという間に去った。
一人は若うちから運動をし、スイミングスクールに通い、定年になって歩き回ってリンパの癌になった。
一人は、若いうちにスポーツ心臓になったが、肉を喰らい、タバコをやめずに心臓発作で亡くなった。
もうひとりは若うちから食に気をつけてみんなを指導し、奥さん盲腸で入院していうるときに一人で脳の血管が破裂して亡くなった。

ふと「寿命」という言葉を思い出した。
寿命なのである。
いいえて妙な寿命である。

運命論者ではないが、(いや運命を信じているが…)その時がきたということだろう
店も社会も、変わってきた。
変わることが良いことなのか?は別にして…

寿命なのである。

店を開いたときには、多くの農家が「直接得売るなんて…」二の足を踏んだ。
いまは最初から直接売ろうとして、そんな畑を作る若い人たちが就農している。

流通は細分化して、空を飛び、地をはって、ネットワークをめぐらした。
どんな流通が出来上がるのか?
じっと見守るほかはない。

役目は終わった。寿命である。

オープン

ひさしぶりのブログだ。

「オープン」と書くと、賭け事好きは「オープンリーチか?」と思う
スケベなやつは「十三か?」と思う(関西人しか知らない!)

そうではない

ようやくオープンまで、こぎつけた
おもえば三年前だろうか…
このままではいけない!このままでは…!という危機感が、
「街なかに、アンテナショップを!」と思っていたのだが
具体的には、動き出せなかった。
資金の問題、今の地方経済の落ち込み、場所等々の問題は山積みだった。
もう時間切れだと思っていたところに、スイスイと流れるように話が進んだ。

動いて見るものだ。語って見るものだ。
動いて語って、なんとか近くまで来たが、
それにもまして次から次へと難問奇問が…
4ヶ月かかっただろう
疲れ果てて酒量があがり、疲れ切って酒量がさがった。
ようやくオープンである。

酒も届いた。

あとは客だけだ。開店初日は、客よりも従業員の多い時間がず~っとあった。
体重は500gほど痩せた!

 

 

 

そのうちに…

いま新しいことをやり始めようとしている

あるビルの一角にアンテナショップだ。
10坪ばかりのカフェをやっていたところだ
家賃が高いので困っていたが、「安くする」と言うので決めた

ところが新しいことをやり始めようとすると、今までの仕事を誰が引き継ぐのか?
ただでさえ

「いっぱい!いっぱい!」なのに…

内装の問題、調度の問題、メニューの問題、広告宣伝の問題。資金の問題、そして人の問題。

問題が山積である。

やりたいことがいっぱいあるが、整理できない。
ひとつひとつ解決しないといけないのだが…

そういうわけでちょっと忙しい。

書きたいことは山程あるが、ブログにもなかなか手を出せない

そのうちに

 

 

それはこちらのセリフです

携帯を替えた
ガラケーからスマフォに
使い方が、ぜんぜん分らん

かろうじて「電話を取る」は出来た。
ところが「電話を切る」が出来ない
何回も”電話が横になっている”マークを押したが、そこは「かける」ボタンのようだ
何回も、さっき切った相手の「もしもし」が聞こえる
「スマフォを使いこなせないので…」と返事をするのも恥ずかしい
無言で切ってしまった。

常識はずれだ!(反省)

 

mailも打てない。
検索もできない

 

魔子様が「音声入力でやってみれば?」と言う
「ほら!出るでしょう!”ご用件はなんですか?”」と読み上げた

スマフォは言う
「それは、こちらのセリフです」

魔子様は笑い転げた。

初めて撮ったスマフォの一枚
どうしてもインスタント写真のように見えない。

これは「インスタばえ」と言えないのだろう!

ある日の朝

友人が亡くなった。
連絡をもらったのが、夜だった。
いつもメールでやり取りをしている息子から電話が来たので、
胸騒ぎがした。

「なにかあったのか?」と最初に聞いた
「親父が、今朝亡くなりました」と言う

絶句した。
とりあえず翌朝駆けつけたら、白装束で横たわっていた。

納棺・通夜・火葬・葬儀と決められた日程のように過ぎていく
信じられない一週間であった。

弔辞を読まねば…と思いながら
あらたまった言葉は浮かばない

それで「別れの挨拶」と言う言葉で語ることにした。
遺影を見上げ、語りかけた。

頭のなかで、今までの思い出を語ったが
後で言い間違えたり、足りない部分があったりと反省した

それで加筆訂正をしてここに文章として記録しておきたい
話し言葉と文章と若干ニュアンスが違いますが…

 

別れの挨拶

直志 ありがとう
本当にありがとう

12年前、胸部大動脈瑠で手術をした時、後遺症として声帯麻痺が残った

「ウソハッタリで商売をし、口先で騙すわしは、人前で話すことが出来ない」と言うと、
お前からヘッドギアのちいさなマイクが付いたスピーカーをもらった。
「小さな声で話しても届くよ!」という声とともに
まだ十分に声が出ないが、大分回復した。
それでも夢中になって力がこもった話し方をすると過呼吸になって喋られなくなる。
今日はお前とは最後だから、ゆっくりと話そう

そういえば食道がんを手術したときにも、贅肉はいいが脂肪から筋肉まで落ちて、
100kgから70kgまで一挙に30kgもやせた
「痩せ過ぎて、寒い!寒い!」と言っていたら
「オリンピックの取材にと、もらったものだ」と言って、キルティング上下の真新しい肌着をもらった
暖かかった。擦り切れるほど着た。

テレビ岩手アカデミーのときには、自社で作ったメモリアルブックをもらった
大病ばかりするわしに「残された人のために準備をしておけよ」と思ったのだろうか…
それが逆になるとは
マメなお前が、そのノートも書き残さずに逝くなんて…
残された美穂ちゃん、亮君は、今回の件で大分難儀をしたようだ

多くのものをもらったが。一番大きなものはモノではなく、いたわりと、はげましだったような気がする

お前とは小学校・中学校・高校と一緒だったが
小学校・中学校は、いつも隣の隣のクラスだったから、よく知らない
顔と名前が一致した程度の認識だった。
お前は「児童会長をやっていた」というが…
母親が見つけた小学校の卒業文集に、将来の職業に
「6年2組鈴木直志 アナウンサー」と書かれていた
昭和36〜7年当時、まだテレビは各家庭に普及していなころだ
「よく、こんな仕事思いついたね〜」というと、
「ラジオにかじりついて、よく聞いていたからな〜」と言って、はにかむように笑った
小学校からの夢を成し遂げるなんて、すごいやつなんだ
僕ら団塊の世代の最後尾までは“ラジオ世代”だった。

高校は一緒だった、グランドだった
お前はトラックでハードル、わしはフィールドでラグビーと同じグランドで三年間過ごした
春はグランドを囲んだ満開の桜が真っ白に覆い、桜吹雪の中で練習をした
高校三年のときに、今日東京から参列している中野正行の家に行った大きな藁葺の家だ。お母さんは囲炉裏端で箱膳で歓待してくれた。
徳利がついていた。
わしの人生で初めて人と一緒に酒をのんだ最初の友人だった
一人では、親父の呑み残しを台所の片隅で呑んでいたが…

高校を卒業して大学は北と南にとわかれ、矢継ぎ早に三通の葉書をもらった
“近況報告”と“安否確認”と…マメな男だった
一生懸命に書いたが、出さなかった。いや出せなかった。
便箋を書き直し、書き直しで、真っ黒になってしまうのだ
今となってワープロの便利性を痛切に感じる最初の時だった。
お前に会うたびに頭が上がらない。最初の忸怩たる思いだ。

そんなことで高校卒業後は疎遠になったが、8年後の夏、劇的な再会をした
転勤で大阪にいたときに、“明日は岩手に帰ろう”とテレビを見ていたときだ。
テレビにお前がでてきた
ナレーターは「本日の甲子園は、テレビ岩手の鈴木アナウンサーに伝えてもらいます」
と言って、顔が大きくアップされた
驚いた、心底びっくりした、アナウンサーになったとは小耳に聞いていたが…
遠く離れた大阪の地で、テレビ越しに再会するとは
あぐらに子供乗せて、麦酒を飲んでいたが子供を放り出し麦酒を吹き出し、あわてて新婚の妻を呼び
「これ同級生!同級生!」と叫んでテレビを指差した
しかし驚きは、それでは、すまなかった。
翌日、伊丹空港に行くと、お前が大きな荷物と一緒に立っていた
驚いて駆け寄って「テレビ見た!テレビ見た!」と言って駆け寄ったが
お前は、あまり驚いたふうもなく、呆然とたっていた。
話を聞くと「同僚がヘリコプターの落下で亡くなり、急遽呼び戻されるところだ」と言う
深い悲しみと、ともにあった。
懐かしさと再会の喜びと、深い悲しみと混じり合った複雑な気持ちで別々の席に分かれて座った。

しかし、驚きはそれですまなかった
花巻空港で別れ間際に住んでいる場所を聞くと
なんと今から帰ろうとする盛岡の実家から歩いて10分ぐらいのところに住んでいると言う
数日後、大阪に帰る前に、自宅の借家に行き、奥さん美知さんの手料理で再会の酒を酌み交わした
そのときにそばで泣いていた赤ん坊が、喪主の亮君であった
そして驚くべき第4段は、美知さんの実家がわしの実家と同じ町内会だということであった。

深い因縁を感じた
それから年賀状のやり取りが再開し、小生がUターンで岩手に帰ってから時々あったが、
お互いに仕事が忙しく、なかなか合うことはできなかった。
おまえが役付きになって、テレビにあまりでなくなって、一線を退いたころだろうか…
小生が店を開いた。
そこへ高校の大先輩であるIBC岩手放送の佐々木篁さんがよく来ていた
当時北上の八重樫真純が「おまえの店に佐々木さんがよく行くと言っていた」と言われた
「ささきさん?」知らなかったが、あとからよく見たら“西郷隆盛“のような風貌の人であった。
佐々木さんは、IBC岩手放送で岩手大百科事典を中心になってつくり、岩手日報の”交差点“と言うコラムも週に一回担当して元常務だった人である
その博学多才ぶりは、岩手の智慧と呼ばれ、岩手の歴史や文化や人々を熟知していた。
新しいことをやり始めた小生をかわいがってくれ、よく一緒に飲んだ。
「花見だ。」「かつおの季節だ。」「鍋でいっぱいだ。」と言って
そして佐々木さんは、いつも「直志を呼べ」と言って三人で飲んだ
話は、いつも政治を嘆き、経済優先社会を、科学技術偏重主義を批判し、口角泡を飛ばし、呑みかつかつ喰らった
ただ批判のための批判ではなく、
そこで岩手が目指すのはラダックの「懐かしき未来」だったし、内山節の「ローカルの世界」だった
そして最後は、自省の念を込めたきちんと報道しないマスコミ批判になるのがつねだった。

そんな佐々木さんも4年前の5月4日に亡くなった。
その辺からかぁ〜
「来年も桜を見られるか?」「みられるか?」と言いながら花見をした。
さきほど弔辞を読んだ千田和博くんから
「北上のさくらまつりの司会を頼まれた」と嬉しそうに言いながら「俺は、桜の男なのだ」と言う
「角館が本籍。北上でそだち、弘前で学んだ。東北三大祭りを語れるのは俺だ」とうれしそうに言っていた。
そんな直志は、わしが食道がんをやっているときに、ややこしい癌になった。そして後を追うように奥さんまで癌になり、あっという間に亡くなってしまった。
「この癌には完治はない。寛解というのだが、小康状態になるための治療だ」
「この癌は辛い、薬が効いても、どこにいつ再発するかわからない。臓器の癌で外科的療法をしたほうが楽だ」
と言いながら。
冬場の「一人暮らしは体調管理もしんどい」と、がん治療を兼ねて入院をしていた

今年の春は異常だった。
「春が遅い」と言いながら「桜が早い」のである。
退院よりもさきに桜が散ってしまうのでは…と心配をした春だった。面会禁止ながら、むりやり会った。20分ぐらいだったが
「10kg痩せた。」と言って胸をはだけ、痩せこけた肋骨と放射線の赤いマーカーを開いた
これでは4月の末に退院は無理かな?と思ったが…

昔のように葉書は出さなかったが、メールのやり取りは頻繁だった。
350通のメールのやり取りをしたが、最後のメールに彼は

お陰様で、昨日無事退院しました。岩大裏門のしだれ桜が見頃で、俺を待っていてくれたようです。
まだまだ散るわけに行かないな。体調のいい時に覗きます。ありがとう!

4月27日のメールが最後になってしまった。
一昨日のニュースプラスワンで柴柳キャスターは
「先輩鈴木直志は、テレビ岩手の顔でした。そして岩手の顔です」と号泣して訃報を伝えた。
まさに「みんなの心のなかに岩手の顔」として残るだろう

そして来年の春も、わしの心のなかに「散らないさくら」として心のなかで咲き続けるだろう

サヨナラは、いわない
「桜の樹の下で、いっぱいやろう!」
「またね」

平成30年5月11日

 

ふるいつきたくなる

フルイを変えた

「ふるいつきたくなるような、いい女」と言う表現がある
これは「思わず抱きつきたくなるような…」と言う意味らしい

そんな抱きつきたくなるような「フルイ」を変えた

違う!

意味が違うのだ。

稲は(ここで突然女から、稲に変わる)
田んぼに立っているときは稲だが…(その先についているのは稲穂と言う)
それを人間が食べる工程で、
稲穂から籾に変わり、コメに変わる
米というのは、八十八回のテマヒマをかけて作られるというが
多分、稲穂からコメに変わる工程も入っているのだろう

稲穂から籾を外して乾燥させ、籾摺りをして玄米にする
昔は稲刈りというと家族総出で親戚郎党を集め。お祭りのようにやったという
今は機械化されて、田んぼでコンバインと言う機械を動かしている父ちゃん
その刈り取った籾を運ぶために田んぼのそばで軽トラで待っている母ちゃん
と言う効率化という二人だけの作業で人手が要らなくなって、
農村から人が消えた

そんな問題も有るのだが
今回は「フルイ」
玄米にしたあと、フルイを掛けて選別する
この農家が選別のためにかけるフルイは、農協へ出荷するためのフルイである。
フルイの網目の大きさは、農協から指定される。
つまりある程度のコメ粒の大きさが指定されるのである。
そこから落ちたコメは(フルイから落ちたコメ)は、屑コメと言うことで処分される。
(裏の話 処分と言うなの再利用されている)
(これは内緒だ。安いコメが出回っているが、それの理由の一端がここにあると言っても過言ではない、あくまでもこれは内緒だ。)

また政府の作況指数と言う発表は、違和感を覚える
これもフルイのせいである。
農水省の作況指数は、1.7mmの網目のフルイを使用している
ところが各農協の指定フルイの網目は、農協間競争でだんだん大きくなって最近では1.9mmになっている。
つまり作況指数の農水省の発表と、実際に農協に出荷した収量との乖離を農家は激しく感じる
そして屑米である。
この再利用も。混米というワザで流通しているから、作況指数の実感は農家は乏しい。

ところがそれからである。
農協に出荷された玄米は、おおきなサイロのようなカントリーエレベーターで保管される。
様々農家のものが一緒である。だから同じにするために、再度乾燥して再度選別するために玄米でフルイにかけられて、農協から出荷される。
それを米屋が精米して白米にし、フルイにかけて選別して消費者に出荷される。

つまり農家で一回、農協で一回、米屋で一回、最低三回フルイにかけられるのである。
そのフルイの網目の大きさが問題なのである
つまり網目の調整で、大きな収入の違いが出てくるのである。

大きなフルイの網目を使用するのは馬鹿な話である。
しかし、それをやろうと思う。

左は従来から店の小米選別機で使用している2.0mmのフルイである
それを右側の2.2mmのフルイに変えた。

(これは粒ぞろいの大米粒である。

一度2.0mmを通したものでも、2.2mmの網目のフルイは、落ちる
どうしても落ちるのである。

しかし、日本で一番大粒の「いのちの壱」を食べたあと、やはり大粒のコメを食べたいと言う想いにはかなわない。

 

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