ラグビーロスである。
魔子様が、小生を見て「ラグビー終わったの?」と声をかけた。
返事もしない。魔子様はラグビーには興味がない。
ラグビー中継が始まるやいなや、自分の部屋にこもりドラマを見る
「あんな痛い運動は…」痛がりの怖がりの魔子様である。

からだを変なふうによじったせいだろうか…
南アフリカの優勝から、殿筋というか…ある筋というか…
力が加わるとビーンと筋肉の張りがいたい。
疲れる44日間であるが、そのあと何日か全快までかかりそうである。

 RWC2019の記念にCAPを孫用に2つ買った。
2019のワールドカップにおじいちゃんが買ってくれたという想いでに…
そういえば、今まで土産など買った覚えがない

小さな頃からラグビーをやらせればよかった。と思うことしきりである。
もっとも仕事ばかりで子どもたちにかまってやることができなかったが…

あるコラムに

当コラム欄のタイトルである『be rugby』は、フランスの社会学者、ダニエル・プティエの著書『ラグビー』(文庫クセジュ)に紹介されている別の研究者(A・スーテール)の言葉から引いた。「ラグビーであること」の解釈は「プレーしているからというだけで、ある個人がラグビーなのではなく、日常的にラグビーを生きているからこそラグビーなのである」。以下、概略。チームという共同体へ帰属する。証明として、恐怖や苦痛にあらがい、みずからの身体を捧げる。そこまでするのだからうまくいかなくてはならない。そのためには仲間との相互性、選手と選手を結ぶ「完璧な信頼」が求められる。それは個人と個人のあいだに強い連帯感情がない限り不可能である…。

学者のように言語化はできないが、ラグビー部員であった者、ある者、ラグビー観戦を深く愛する者なら、わかる。ラグビーは痛くてこわくて、ひとりでは絶対にできない。いや、ひとりずつの集まりでもできない。だから「人生」が関係してくるのだ。オールブラックスやイングランドやジャパンでなくとも、ナミビアもカナダもロシアも「見つめるに値する」理由である。異なる文化の異なる個性がラグビーの共同体を形成する。不要なチームはひとつもない。無視できる人間もひとりもいない。

前掲の書にはこんな言葉も紹介されている。
「ラグビー、人生の学校」
かつてフランスの協会の標語のひとつであったらしい。
校則でなく連帯で営まれる学校。