やるべきことが沢山ある。
しかし、とっつきにくいと言うか、取りかかれない。
こういうときに、すぐ他人のせいにする悪い癖の入道である。
今回はワールドカップのせいである。
9月20日に始まって、まだ5日も立たない、最終が11月3日だというのに…
面白すぎるのである。
いつもいうが、サッカーは動きがなくて、トイレに立った時、点が入る
ラグビーは、トイレに立つヒマがない。
利尿剤を呑んている初老の男は、ハーフタイムまで我慢するしか無い。
トイレに立つ瞬間に試合が動くのである。
油断も隙もない。

昭和40年代は、戦後のスポーツは体力増強と団体規範のような運動だった。
中学校・高校と全員授業後の部活に入るシステムになっていた。
県立高校に入った小生は、当時中学校の授業でならった、サッカーをやろうとおもった。
中学のサッカー部の連中に誘われたからである。
ところが岩手県の高校には、あまりサッカー部がなかった。(あったかな?)
外で大きなボールを投げたり蹴ったりするのは。ラグビーだけだった。
しかたなくラグビー部に入ったのが、最初の出会いである。
当時、ラグビーをやるのは工業高校だった。商業高校は野球だった。
どちらかと言うと就職に有利ということで職業高校が運動部が盛んだった。
だから試合をすると、普通高校はいつもボロ負けだった。

大学も、入学式に先輩に見つかり仕方なく、ラグビー部に入った。
4年間アルバイトと、ラグビーに泥まみれに毎日だった。
その頃であろうか、大学ラグビーが人気になってきた。
大学が名前を高めるために運動部推薦の枠を設け優秀な高校生をきぞって入れた。
そして野球は早慶戦。ラグビーは早明戦がもてはやされた。
そこへ彗星のように現れたのが早稲田の宿澤弘朗であった。
埼玉出身の彼はラグビ−選手とは思えないほど身体が小さかった。
しかしそれ以上に体力任せの推薦入試のラグビー部の中で、
難関の早稲田の政経学部に一般入試で入った秀才だった。
当時日本選手権は、大学と社会人の優勝者で争われ、彼が2年と3年のときは日本一に輝いた。(4年時は学生選手権で明治に負けた)
その彼が大学卒業して銀行に勤め、ラグビーから足を洗ったが、
その解説や分析力を請われ。日本代表監督となった。
その緻密な情報収集力とチームに自信を与える言葉は未だに色褪せない。
そして1989年5月28日秩父宮で、初めて8強のひとつスコットランドに勝った。

彼は銀行で専務まで上り詰め、亡くなった
彼とは、同じ世代である。
「水を飲む時井戸を掘った人を忘れず」という。
ここ数年の日本代表の活躍は彼から始まった

彼の座右の銘
「努力は運を支配する」「勝つ事のみ善である」