「日野岳唯照は敵だ。宿敵だ。そして難敵だ」
そう思い始めたのは、ここ2〜3年だろうか

ちいさな野菜畑ができて23年。付き合いを初めて20年にもなる。
「留学生との花見が、お寺である」と聞いて、
中学に入ったばかりの長男を連れ、英語を学ぶきっかけになればと出かけた、
そのときに倒れかかった本堂の濡れ縁で、煙草を吸ってる作務衣姿を思い出す。
大体が、お寺で留学生の交流会?というのが引っかかった。
その他にも「インディアンの団体を泊めて、えらい問題を起こした」
とも聞いた。”面白そうな寺だ”と耳にあった。
その後、誘われるまま、色々な会合が専立寺で行われていたのに顔を出した。
「豊かな食べ物を求める会」「学校の先生たちの勉強会」
「三陸の海と放射能を守るかい」「子供の教育を考える会」
たぶん、その他にも様々な会が、ここ専立寺で開かれていた。

ちいさな野菜畑できて三年目ごろ、新しい取り組みを企画した。
農家と市民が、農産物と食を通してつながる「身土不二いわて」という会だ
「しんどふじ」は、「地元のものを食べることが体にいい」という
”東洋の食哲学の言葉”だと、どこからか聞いた。
その身土不二の会を、農家と市民の関係性のなかで、つくろうとしたのである
一番最初に声をかけたのは、岩大の教授であった栄養学の鷹觜テル先生である。
鷹觜先生は「山梨県の棡原の長寿食」や宮古の重茂半島の海藻たっぷりの食事で「地元の食事を取ることが体にいい」と言っている先生だ。
その先生に代表の就任の電話をお願いすると、高齢の彼女は見ず知らずの小生に「やります。ぜひやります。私が提唱してきた身土不二の会は私がやりたい」
という。「身土不二」という言葉に大変な思いを持っていた人であった。

 そして次は、日野岳唯照である。
「身土不二岩手の事務局の場所を…」というと彼は
「身土不二の会は、自分が作っている会だ」という
「会員は、何人いるのですか」
「ひとりだ」
なんと彼は、一人で身土不二を実践し学んでいたのであった。
彼は嬉しかったのだろう。両手を上げて事務局の提供をしてくれた。
そして「身土不二」は東洋の食哲学ではなく
「しんどふに」と呼ぶ”仏教の言葉”だと教えてくれた。

そんな身土不二の会を立ち上げると、旧知の佐賀県の農民作家山下惣一は
「身土不二の由来と意味をかきあげたい」と言って
「一緒に韓国から、中国へ行かないか?」と行ってきた。
しかし、小さな店を営んで毎日のように生鮮野菜を扱っている身としては。
店を開けられない。
まして住職は、いつ葬式で呼び出されるか、わからない日々である。
そんな山下惣一は帰国後、「身土不二の探求」を著し、住職を取り上げている。

そんな身土不二の会で、さまざまな農家と市民の共同企画を取り組でいると
合鴨除草を研究している鹿児島大学の萬田教授から
「身土不二いわて」で20世紀最後の全国合鴨フォーラム大会を…
という話が持ち込まれた。
それは岩手の市民と農家の協同企画で全国から人を集める大イベントだった。
それまでの農業のイベントは「行政や農協が仕組んだ企画を実行する」
というスタイルだったが、実際は農家が手伝っているという企画だった。
これは、行政も農協も応援に回り、農家と市民が作り上げる企画だった。
温泉を貸し切って開催し、500人を集めて成功に終わり、
ある若い農家は「自分たちだけで、できるなんで…」と感動をしていた。
ユニフォームのない貧乏企画だったが、当日に赤いエプロンが間に合った。
今になって考えると日野岳唯照は、赤いエプロンを身に着け壇上に上がった
現役の僧侶が…
しかし、彼はひょうひょうと面白がって、楽しんでいた。
今にして思えば、大変失礼なことをしたのかもしれない。
その後、僧侶も参加した企画と新聞でも結構話題になった。

そして、そのころ哲学者の内山節さんの本の読書会「哲学寺子屋」を始めた。
それまでお寺の僧侶間の勉強会は色々と行っていたが、
日野岳唯照は民間との勉強会を開きたかったようだ。
とりあえず「これをやりたかった」と嬉しそうに語った顔を思い出す
それが今専立寺の、内山節を呼ぶ報恩講へと続いている。
月に一回の「哲学寺子屋」だったが、長く続いたこともあって
次第に惰性に流れ、参加者も少なくなり、昨年取りやめた。
月に一度、日野岳唯照の顔を見ることが嬉しかったのだが…

しかし、ちいさな野菜畑も
ここ数年道の駅の増加と量販店のインストア産直が増え
売上は減少に転じた。売上を伸ばす事は容易である(利益を出すのは難しい)
売上を減少しながら、経費とのバランスを取るのは至難の業である。
悪戦苦闘の毎日をすごしていると
経済のことなどわからない坊主に相談をしてしまった。
彼は言う「やめたら」そして口を続けて「やめたら」としか言わない
「このくそ坊主。経済や社会のことなんかわからないお前なんかに相談しない」「坊主だってカネを稼いで生きているのじゃないか?」
とそれ以降、仲間ではなく「敵」に変化した。
そして坊主の前で「愚痴は言わない」と
佐藤淳一先生と清水マスターの主催する「寺子屋ライブ」は冒頭に
日野岳和尚の本物の坊主と、野菜畑の偽物の坊主との対談がセットされている。
それは噛み合わない対談だった
「人生は、たのしくやろうぜ」という本物の坊主
「地方経済は落ち込み、疲弊している。そこで何をどう考えるか?」
という偽坊主の対談である
そして「わかりにくくて深い話」本物の坊主と
「わかりやすくて、そこの浅い話」偽物の坊主の応酬である
それも16回を数え、もうできなくなった。

昨年の9月、家内に余命八ヶ月の病気が見つかった。
専立寺に駆け込み500ミリリットルの缶ビールを3本あけ、泣いた。
手術だけをして、店を閉めることを決断した。
あとは余生だ。楽しんで生きていこうと思った
ふと住職の言葉を思い出した。
「面白い、楽しい、」
そのときに初めてわかった
「人はみな死に向かって生きているのだ」とわかったふりをして喋っているが
死に向かって生きていれば、楽しいほうが良いに決まっている
難行苦行を乗り越えて生きていく人生が、人間の生き方なのか?
それに気が付かされた。
日野岳唯照は、死を超えて向かっていく方向を示していたのである。
「人生なんて面白くなければ、意味がない」と
かれと付き合って長い年月があった。
かれは一貫して、さまざなことに面白がって取り組んできた。
しかし、それは勇気のいることだろう。
宗教家として、それを貫き通すのは至難の技だったのかもしれない
 尊敬している檀家の佐々木篁さんが亡くなったときに、彼は枕経をあげた。
遺体の前に座り、じっとしていた。ふと気がつくと、肩が揺れている。
泣いているのである。
僧侶が、遺体を前に泣くということがあるのか?
熱い男である。
情のある男である。

小生は専立寺とのつきあいの20年の間に何回も中央病院に入院をした。
病院の6階の面会ホールから朝日が登る岩山が見え、
その下には、専立寺の丸い屋根が見える
いつも朝早く起きて、朝日を拝み専立寺の屋根を見た
あの丸い屋根の下には、日野岳唯照が作り上げた世界がある。
そして、その関係性の世界が朝日の光の中で広がる。
専立寺の檀家となって、誇りに思う
そして日野岳唯照としりあって、誇りに思う。

(日野岳唯照の葬儀のときの弔辞を元に
書き留めたものである。一度書いて残しておきたかった。)
そろそろ一周忌の準備だ。
10月5日は、豊かな求める会の和尚を偲ぶ会だという。