ちいさな野菜畑

ちいさな野菜畑ブログ

糠漬け農業

糠漬けを作り始めて、まる2年も経った。というべきか
まだ、まる2年である。というべきか…
2年が長いか短いのか…
それは年月や回数だけではなく、一つ一つの考察の積み重ねによるものだろう

最近わかったのは、「糠漬けは農業である。」ということだ。
毎日毎日、糠を触っていると、塩を降った野菜が
肥料を振った苗に思えてくる

 

農業は、地力を収奪しているから肥料を足しながら種や苗を植える
しかし、地温・気温・水分や土壌条件などの状況で思うように育たない。
人間ができることは、温度に左右されない保温性の有る土壌を微生物の力で作ることだ。(固相・気相・水相の三相構造)
後は神頼みだ。

糠漬けも漬ける作物を気にするが、基本は糠の状況である。
漬けるときは嫌気性発酵だが、毎日の管理は好気性と嫌気性の交互である。

つまり固めて押しつぶして嫌気状態に置いて、ある程度時間が経ったらかき回して好気の状態にする。

そして漬けるときの温度、保管するときの温度をコントロールするために、室内の常温、冷蔵庫内の低温、夜間の管理など糠の中の微生物がいい状況に置けるよう管理する。
それだけで、後は、よく漬かるかは、神頼みだ。

農業と糠漬けはよく似ている。

主役(微生物)が表に出てこない。
出来た作物だけが評価される。

最近、「美味しい」という客が増えてきた。

 

 

観念よりも感じを!

このごろ時々来る客がいる。三回目だろうか…
なぜか目につく
来たら、1時間は店内を回り、商品を立ち止まって見る
リュックを担ぎチェックの柄のシャツ
小柄でメガネで真面目そうである。

想像するに、どこか大手企業の経理係長?
または中小企業の総務課長補佐で、定年退職した…という感じだ

最初は、ずいぶん長くいる人だな?と思いながら見ていた
店にとっては、いい人だ
こちらの狙いは、店に長く滞在してもらい、新しい発見を見つけてほしいのだ。
ひとつひとつの商品に、いわれがあるし、こだわりがある
それを、じっくり感じてほしいのだ
そんな想いを感じた人は「面白い店ですね」と言う

買い物をするのに目的を持って来る人
「豆腐がほしい」と思もって買いに来る人は、
隣に、どんなこだわりの納豆があっても、気が付かない。

そんなもんだ人間なんて

そんな彼は、客がいなくなった頃を見計らって、レジの小生のところに来る。
そして二言三言交わして帰る

今日は「初めて、おたくで玄米を食べました。
驚きました。美味しいですね…」

どうやらこびる食堂で定食を食べたようだ
定食を食べると「白米にしますか?玄米にしますか?」と聞くようにいしている。

常連はわかっているから、聞かない
初めてでも、当店に来る客は「玄米を!」という客が多い
そういう意味で「食」に関心を持っている人が多いのだろう

以前あるトンカツチェーン店で、ご飯の玄米選んだことが有る
これは失敗だった
ゴワゴワのぼろぼろなのである。
まぁそれが玄米のイメージなのだろう

当店の玄米ご飯は、しっとりねっとりしている。
それが初めて食べた人には驚きを感じるのである

しかし、玄米が好きだという人は、
「やはり玄米はサッパリしてないとね」と言う人もいる。
それはそれで個人の好き嫌いだから否定はしない。

ただ玄米のイメージを変えたいのである。
工夫して炊けば、このように炊けると…

毎日食べるものだから長続きしないと意味がない
観念で食べるのではなく、感じで食べないと続かないのではないか?と思うのである。

 

 

いいわけ

4月5月と一本しかブログを書いていない。
理由があるのだが…
いつも多分4月5月は少ない。

春の準備といえば格好がいいのだが…
春の準備も一昨年から「花壇苗・野菜苗」の販売をやめた。
これは段取りと、テマヒマがかかりすぎる

以前は欠けたテマヒマ分の売上が上がったが、だんだん売上げ下がってきた。
競争相手が増えてきたのである。
苗の販売は、「土を売る」ようなものである
だから苗生産農家は、安い土を買って肥料を混ぜ合わせるか
大量に培土を自家生産する仕組みをつくる

以前は土が輸入禁止なので、海外からグラスウールに植えた苗を買うか
石に植えた苗を買うかした
「種代や、苗生産のテマヒマ(種から苗になるまでの水やりやスペース)の節約」なのである。
苗専門の大規模農家は、だいたいがそうである
中規模の自家製産苗農家や小規模農家は、培土や苗も自家製産であるが、
北国ではまだ寒い雪の降る2月頃から暖房をして栽培が始まる。
そしてムンムンと蒸し暑いハウスの中で水やりをし、植替えをすすめるのである。
だから苗を値切るというようなことはなかなか出来にくい

ところが大きなメーカーは、南国で栽培し、北国へ持ってくるのである。
暖房などの設備はいらないし、ハウスも簡単なもので早く大量に栽培できる

よく雪形と言われる山の風景が有る
岩手で言えば岩手山に鷲の形が現れたら農作業を本格的に始めるときだ。と言う言い伝えが有る。
そのように自然の状況に合わせて農作業をするのだが
経済は自然と乖離してスタートする
つまり、早く店に出して、買う気をそそのそかし、購入させるのである。
つまり、霜あたって苗がだめになったら、これ幸いと植え替え用の苗をすすめるのである。

それは「もったいない精神」とか「自然に合わせたくらし」とか、
日本人の精神とは、かけ離れたところでビジネスが行われるのである。

儲かれば良いのか?

苗を引き取ったときから、毎日の水やり、終わった花を摘む、病葉を摘む、
そんな手間ひまをかけて老化苗になると売れない。ロスが多いのである。

売上が上がるが、ロスが多い。
毎日のテマヒマが多い。つまり売上の割合に経費がかかりすぎるのである。
それを解消するには量販することが必要なのだが…
競争相手が多くなると、量産することは大量のロスに繋がる

結果として積極的にやらないということがロスの解消になるのか…
農業はビジネスになりにくいのである。

今年は、せっかくの苗の販売を積極的にやらないで時間が出来たと思ったら、
金融機関の契約の更改や、新事業の企画や、友人の死などが重なって、多忙の4月5月になってしまった。

もう一度練り直さないと「地方の小規模小売業の再生」を目指す当方としては、春のスタートがきれない。

 

 

 

 

ある日の朝

友人が亡くなった。
連絡をもらったのが、夜だった。
いつもメールでやり取りをしている息子から電話が来たので、
胸騒ぎがした。

「なにかあったのか?」と最初に聞いた
「親父が、今朝亡くなりました」と言う

絶句した。
とりあえず翌朝駆けつけたら、白装束で横たわっていた。

納棺・通夜・火葬・葬儀と決められた日程のように過ぎていく
信じられない一週間であった。

弔辞を読まねば…と思いながら
あらたまった言葉は浮かばない

それで「別れの挨拶」と言う言葉で語ることにした。
遺影を見上げ、語りかけた。

頭のなかで、今までの思い出を語ったが
後で言い間違えたり、足りない部分があったりと反省した

それで加筆訂正をしてここに文章として記録しておきたい
話し言葉と文章と若干ニュアンスが違いますが…

 

別れの挨拶

直志 ありがとう
本当にありがとう

12年前、胸部大動脈瑠で手術をした時、後遺症として声帯麻痺が残った

「ウソハッタリで商売をし、口先で騙すわしは、人前で話すことが出来ない」と言うと、
お前からヘッドギアのちいさなマイクが付いたスピーカーをもらった。
「小さな声で話しても届くよ!」という声とともに
まだ十分に声が出ないが、大分回復した。
それでも夢中になって力がこもった話し方をすると過呼吸になって喋られなくなる。
今日はお前とは最後だから、ゆっくりと話そう

そういえば食道がんを手術したときにも、贅肉はいいが脂肪から筋肉まで落ちて、
100kgから70kgまで一挙に30kgもやせた
「痩せ過ぎて、寒い!寒い!」と言っていたら
「オリンピックの取材にと、もらったものだ」と言って、キルティング上下の真新しい肌着をもらった
暖かかった。擦り切れるほど着た。

テレビ岩手アカデミーのときには、自社で作ったメモリアルブックをもらった
大病ばかりするわしに「残された人のために準備をしておけよ」と思ったのだろうか…
それが逆になるとは
マメなお前が、そのノートも書き残さずに逝くなんて…
残された美穂ちゃん、亮君は、今回の件で大分難儀をしたようだ

多くのものをもらったが。一番大きなものはモノではなく、いたわりと、はげましだったような気がする

お前とは小学校・中学校・高校と一緒だったが
小学校・中学校は、いつも隣の隣のクラスだったから、よく知らない
顔と名前が一致した程度の認識だった。
お前は「児童会長をやっていた」というが…
母親が見つけた小学校の卒業文集に、将来の職業に
「6年2組鈴木直志 アナウンサー」と書かれていた
昭和36〜7年当時、まだテレビは各家庭に普及していなころだ
「よく、こんな仕事思いついたね〜」というと、
「ラジオにかじりついて、よく聞いていたからな〜」と言って、はにかむように笑った
小学校からの夢を成し遂げるなんて、すごいやつなんだ
僕ら団塊の世代の最後尾までは“ラジオ世代”だった。

高校は一緒だった、グランドだった
お前はトラックでハードル、わしはフィールドでラグビーと同じグランドで三年間過ごした
春はグランドを囲んだ満開の桜が真っ白に覆い、桜吹雪の中で練習をした
高校三年のときに、今日東京から参列している中野正行の家に行った大きな藁葺の家だ。お母さんは囲炉裏端で箱膳で歓待してくれた。
徳利がついていた。
わしの人生で初めて人と一緒に酒をのんだ最初の友人だった
一人では、親父の呑み残しを台所の片隅で呑んでいたが…

高校を卒業して大学は北と南にとわかれ、矢継ぎ早に三通の葉書をもらった
“近況報告”と“安否確認”と…マメな男だった
一生懸命に書いたが、出さなかった。いや出せなかった。
便箋を書き直し、書き直しで、真っ黒になってしまうのだ
今となってワープロの便利性を痛切に感じる最初の時だった。
お前に会うたびに頭が上がらない。最初の忸怩たる思いだ。

そんなことで高校卒業後は疎遠になったが、8年後の夏、劇的な再会をした
転勤で大阪にいたときに、“明日は岩手に帰ろう”とテレビを見ていたときだ。
テレビにお前がでてきた
ナレーターは「本日の甲子園は、テレビ岩手の鈴木アナウンサーに伝えてもらいます」
と言って、顔が大きくアップされた
驚いた、心底びっくりした、アナウンサーになったとは小耳に聞いていたが…
遠く離れた大阪の地で、テレビ越しに再会するとは
あぐらに子供乗せて、麦酒を飲んでいたが子供を放り出し麦酒を吹き出し、あわてて新婚の妻を呼び
「これ同級生!同級生!」と叫んでテレビを指差した
しかし驚きは、それでは、すまなかった。
翌日、伊丹空港に行くと、お前が大きな荷物と一緒に立っていた
驚いて駆け寄って「テレビ見た!テレビ見た!」と言って駆け寄ったが
お前は、あまり驚いたふうもなく、呆然とたっていた。
話を聞くと「同僚がヘリコプターの落下で亡くなり、急遽呼び戻されるところだ」と言う
深い悲しみと、ともにあった。
懐かしさと再会の喜びと、深い悲しみと混じり合った複雑な気持ちで別々の席に分かれて座った。

しかし、驚きはそれですまなかった
花巻空港で別れ間際に住んでいる場所を聞くと
なんと今から帰ろうとする盛岡の実家から歩いて10分ぐらいのところに住んでいると言う
数日後、大阪に帰る前に、自宅の借家に行き、奥さん美知さんの手料理で再会の酒を酌み交わした
そのときにそばで泣いていた赤ん坊が、喪主の亮君であった
そして驚くべき第4段は、美知さんの実家がわしの実家と同じ町内会だということであった。

深い因縁を感じた
それから年賀状のやり取りが再開し、小生がUターンで岩手に帰ってから時々あったが、
お互いに仕事が忙しく、なかなか合うことはできなかった。
おまえが役付きになって、テレビにあまりでなくなって、一線を退いたころだろうか…
小生が店を開いた。
そこへ高校の大先輩であるIBC岩手放送の佐々木篁さんがよく来ていた
当時北上の八重樫真純が「おまえの店に佐々木さんがよく行くと言っていた」と言われた
「ささきさん?」知らなかったが、あとからよく見たら“西郷隆盛“のような風貌の人であった。
佐々木さんは、IBC岩手放送で岩手大百科事典を中心になってつくり、岩手日報の”交差点“と言うコラムも週に一回担当して元常務だった人である
その博学多才ぶりは、岩手の智慧と呼ばれ、岩手の歴史や文化や人々を熟知していた。
新しいことをやり始めた小生をかわいがってくれ、よく一緒に飲んだ。
「花見だ。」「かつおの季節だ。」「鍋でいっぱいだ。」と言って
そして佐々木さんは、いつも「直志を呼べ」と言って三人で飲んだ
話は、いつも政治を嘆き、経済優先社会を、科学技術偏重主義を批判し、口角泡を飛ばし、呑みかつかつ喰らった
ただ批判のための批判ではなく、
そこで岩手が目指すのはラダックの「懐かしき未来」だったし、内山節の「ローカルの世界」だった
そして最後は、自省の念を込めたきちんと報道しないマスコミ批判になるのがつねだった。

そんな佐々木さんも4年前の5月4日に亡くなった。
その辺からかぁ〜
「来年も桜を見られるか?」「みられるか?」と言いながら花見をした。
さきほど弔辞を読んだ千田和博くんから
「北上のさくらまつりの司会を頼まれた」と嬉しそうに言いながら「俺は、桜の男なのだ」と言う
「角館が本籍。北上でそだち、弘前で学んだ。東北三大祭りを語れるのは俺だ」とうれしそうに言っていた。
そんな直志は、わしが食道がんをやっているときに、ややこしい癌になった。そして後を追うように奥さんまで癌になり、あっという間に亡くなってしまった。
「この癌には完治はない。寛解というのだが、小康状態になるための治療だ」
「この癌は辛い、薬が効いても、どこにいつ再発するかわからない。臓器の癌で外科的療法をしたほうが楽だ」
と言いながら。
冬場の「一人暮らしは体調管理もしんどい」と、がん治療を兼ねて入院をしていた

今年の春は異常だった。
「春が遅い」と言いながら「桜が早い」のである。
退院よりもさきに桜が散ってしまうのでは…と心配をした春だった。面会禁止ながら、むりやり会った。20分ぐらいだったが
「10kg痩せた。」と言って胸をはだけ、痩せこけた肋骨と放射線の赤いマーカーを開いた
これでは4月の末に退院は無理かな?と思ったが…

昔のように葉書は出さなかったが、メールのやり取りは頻繁だった。
350通のメールのやり取りをしたが、最後のメールに彼は

お陰様で、昨日無事退院しました。岩大裏門のしだれ桜が見頃で、俺を待っていてくれたようです。
まだまだ散るわけに行かないな。体調のいい時に覗きます。ありがとう!

4月27日のメールが最後になってしまった。
一昨日のニュースプラスワンで柴柳キャスターは
「先輩鈴木直志は、テレビ岩手の顔でした。そして岩手の顔です」と号泣して訃報を伝えた。
まさに「みんなの心のなかに岩手の顔」として残るだろう

そして来年の春も、わしの心のなかに「散らないさくら」として心のなかで咲き続けるだろう

サヨナラは、いわない
「桜の樹の下で、いっぱいやろう!」
「またね」

平成30年5月11日

 

月別アーカイブ : 2018年5月