ちいさな野菜畑

ちいさな野菜畑ブログ

トンネルと抜けると、そこは青空

沢内へ行った。今は沢内とは言わない。
湯田町と沢内村が合併して、西和賀町になったからだ。
しかし自分にとっては、いつまでも「豪雪の沢内」なのである。

中学校から高校に進学したときに。初めて出会ったのが
「山線」から通ってくる同級生たちだった。
「ヤマセン!」「ヤマセン!」と馬鹿にしていたが、奥羽山脈を秋田から超えてくる「横黒線」という名前だった。

横手市と黒沢尻町(現北上市)の秋田と岩手を結ぶ線路だった。
東北地方には、太平洋側の東北本線と日本海側を走る奥羽本線との間には、

仙台と山形を結ぶ「仙山線」
古川と新庄を結ぶ「陸羽東線」、
北上と横手を結ぶ「横黒線」
盛岡と大曲を結ぶ「田沢湖線」
盛岡と大館を結ぶ「花輪線」と五つもある。(今知った)
鉄道の駅名は、よく知っているつもりだが、路線名はしっかりと承知していない。

当時北上の高校に進学していた小生は、「ヤマセン」と呼ばれる奥羽山脈をまたいで横黒線で通ってくる同級生たちと一緒になった。
彼らは春と夏と秋は、汽車で通ってくるのだが、冬は大体が「下宿」である。。
しかし、小生は校門から歩いて五分のそばに家があり、授業が終わるとラグビーの練習に明け暮れ、友人たちの下宿生活を知らない。
色気づいた高校生だから、面白い話が色々とあったらしいが、こちとら至って真面目な高校生活だった。

しかし、「ヤマセン」から通ってくる同級生たちは、総じて成績が良かった。
今にして思えば。金をかけて高校にやるからには、しっかりと頭の良い奴を選抜して送り込んで来たのだった。
小生のように、ふわふわと中学生活を送り、ふわふわと高校へ入った高校生とは違っていた。
そんなヤマセンから通ってくる高校生の一番の奥地の村が「沢内」であった。
奥羽山脈の一番てっぺんの駅から、またバスに乗って行ったようだ。(その時は知らなかった)

沢内が有名になったのは「生命尊重の村 深沢晟雄村長」である
様々な行政の反対を受けながら、豪雪の中、日本で最初に高齢者の医療費無料化や乳児死亡率ゼロを達成し、住民に慕われた名村長である。
小生の高校時代には、もう亡くなっていたようだが、
今にして思えば、当時は沢内村は全国的にも有名だったようだ。(何も知らなかった)

そんな沢内村に高校時代の友人や…農家仲間が何人もいる。
中学校の時だっただろうか…
土建屋に勤めていた父親が、沢内村の学校の現場監督をやっていた。
その現場事務所は、一階が雪で埋まり二階から出入りしていた。
そして道路の両側には垂直にそびえ立つ雪が、壁のようになっていたことを思い出す
そんな沢内村に豪雪の2月にでかけていった。

 

雪の壁が立ちはだかり
雪煙が舞って視界を防ぎ
除雪車が走り回り

生産者の家には寒干し大根がぶらさがり
生産者の友人は「おら、まいにちこんなんだ」
「積雪何メーターで、たまげていられね」
「4月13日雪の中で種籾を播く」と言う

トンネルの出口は吹雪と除雪車で覆われ

トンネルと抜けると、青空だった。

 

 

 

 

遊座

岩手は「どちら派?」と言われることがよくある

ようするに宮沢賢治と石川啄木である
同時代に生きた作家(?)芸術家(?)としてどちらが好きか?ということである

小生は昔は童話作家としての宮沢賢治はよく読んだ。
だけど、その意味がよくわからない。
いろいろと話を聞いていると、どうやらその物語に思いを馳せて想像するのが楽しいのだろう
だからさまざな賢治ファンがいて、さまざまな解釈が飛び交う。
石川啄木は、そのわかりやすい三行詩と覚えやすさで親近感を持った。

だから、どちらかと言うと「啄木派」である。

40代に農業の世界に入って玉山村の農家と、いろいろと付き合いがあった
玉山村は、何ヶ村が一緒になって村ができたが
その一つに啄木で有名な渋民村がある
何人かの農家は、「爺さんは啄木の同級生だ」と自慢げに話をしていた。
そんな農家に
「啄木は石をもて追われる如く故郷をでていったのだ!いつの間に故郷が啄木に媚を売ったのだ」と茶化す。

そうなのである。
あの岩手山や北上川を「ふるさとの山。ふるさとの川」と読んだ啄木には、味方はふる里の自然しかなかったのだろう

そんな寺の息子だった啄木と関係のある寺が二つある
生誕した「常光寺」そして、大きくなって移った寺が「宝徳寺」である。

宝徳寺の代々の住職の名字は「遊座」という
珍しい名前だ
高校のときに「遊佐」という先生がいたが、彼は数学で山形出身だった。
先日無くなったマナ自然食品のご主人は「遊座」という
奥さんは言っていた。
うちは「宝徳寺の長男の家系なの…」

どうやら啄木生まれた頃の話では、宝徳寺の長男が
「寺の跡目を継ぐか?」という問いに「継がない」というので

石川一禎が入ったという
一説によると啄木の学費を払うために寺の木を切って売ったために村人の怒りを買ったという
そして啄木一家が追い出された後「遊座」の次男の家系が、宝徳寺の跡を継いでいるという

 

面白い
こんなところで啄木との関わりが出てくるなんて…
そして「遊座昭吾」という有名な啄木研究家がいる。
国語の教師だったというが。
彼は宝徳寺の跡をついだ次男の孫だという
追い出した寺の跡目が、著名な啄木の研究家になっているとは…

これは啄木が学生時代に過ごした盛岡のある中学校の立志式の弁当である。

 

 

 

物流

盛岡正食普及会の再建に関わったのは昨年夏だっただろうか…
最近認知症気味で、時系列がわからなくなってきた

そう思っていたら、マナ自然食品店が1月末に店を閉めると言う
年末に、ご主人が倒れて亡くなったらしい。

盛岡の自然食品の老舗が相次いで閉店をした。
二軒とも自然食品の扱うキッカケがちがう
盛岡正食普及協会は、戦後のアメリカ戦略の小麦の処分のために押し付けたパンへの食糧改善(?)から安心の自然食品へ…
マナ自然食品店は、マクロビオテックから自然食品へ42年の長きに渡って続けてきたという。
(ちなみにマナと言うのは聖書に出てくる「命のパン」という意味らしい)
当店などは身土不二の農から、地産地消の食へと言う流れで、自然食品の調味料を扱うようになったが…
たかが23年である

自然食品の発想の元は、石塚左玄である。
石塚左玄は明治の軍医で、身土不二や一物全体食を提唱した。
病弱な桜沢如一(さくらざわゆきかず)は、石塚左玄の食養生を学んで健康になったという
そして世界にマクロビオテックを広めた(詳しくは知らない)
自然食品業界メーカーのオーサワジャパンは彼の「桜沢(オーサワ)」からきている。

農産物が産直の展開で、どこからでも手に入るように流通が乱れている
自然食品業界も乱れに乱れている
今までは、ある程度秩序ある流通ルートが
ネット販売が盛んになるに連れて
卸売業や小売業、団体客や個人客。入り乱れて複層して商品が流れ始めている
一つ自然食品店が失くなると、あっという間に別のルートが幾らでもできる。
そんな雰囲気である。

当店もマナ自然食品の閉店した在庫を格安にて販売しているが
安いからと言って売れるものでもない
このような主張を持っている商品は、なかなか売れ筋にはつながらないのである。
安かったら試しに使ってみるか…という人がほとんどであるが

いずれにせよ
今流通の劣化が叫ばれ、直接消費者から情報を得ると言って「利益の中抜き」が行われているのが実態だ。
基本的には流通業界自身の劣化が契機となっているのだから、仕方のない面があるが…

とはいえ最近のヤマト運輸の運賃の見直しが、どのような影響があるのか興味津々である。
流通の劣化は、流通業者のタイマンと、運賃の値下げ競争にあると言っても過言でない
その運賃が上がるということで、各メーカーが一斉に商品の値上げや運賃の値上げに向かうだろう

 

あまり無理をしない
無理をしないでぼちぼちやろう

そんな感じだ!

 

 

 

 

 

 

 

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