最近「売る」ということを考えている。
「売る」とは、どういう事か…
単純には「ものを金に換える」事なのだろう

昭和40年頃から、末端の小売業が変わってきた。
食品では八百屋・魚屋・肉屋から、スーパーになってきた。
雑貨も量産品がでてきてから、スーパーで扱うようになってきた。
ようするに日本型〇〇屋が、アメリカ型量販店になってきたのである。
それは物を並べる、欲しい人が選択して選べる。と言う方式である。

それまでは、ものが乏しかった。
小売店がお客の顔が頭に浮かび、市場や問屋から欲しいものを代わりに選んでいた。
だから小売店は、客の家族構成から好きなものから好悪の判断基準まで深く知っていた。
その時代は、戦後と呼ばれていたが、そこへ高度成長期がやってきた。
不足していた物資が、生産設備の改良や流通ルートの整備でどんどんものが溢れ、選べるようになった。
そしてスーパーと呼ばれる量販店である。
効率化した店内は物が溢れ、人々は選ぶという楽しみを知った。
大きな店内に豊富なものが溢れ、中小の店は駆逐され、商店街が消えた。

「それも時代の流れだ」と言いながら、その影で買い物難民がひっそりと生まれていた。
今は、団塊の世代が大量に定年を迎え、車の免許を返上し、団地は歯抜けとなり、子どもたちは都会へと就職し、コンビニは過当競争で人口減少下の街は撤退が続く。

ものは揃っている、ネット環境も良い。
贅沢さえしなければ、何もいらない。
テレビとパソコンで情報は入る。ネットで物は届く。
食事も弁当が配達されれば…
一日話をしなくても、済む。

そういえば東京に住んでいる人が言った。
「朝から晩まで、一日話しなくても良くなった」
生の言葉を聞くのは、コンビニの

「いらっしゃいませ、こんにちは」

である。

初めて営業という仕事に携わったときに

「売るとは、自分を売るのである」

と教わった。
「会話の中で、さり気なく相手のきもちを聞き出す」
相手の気持を読み、何を考えているのか…を想い
察してやる

ものの説明をして、ものを売ることではない。

そんな会話が無くなったときに街のコミュニティも無くなった。
それを復活する方法を、今作ろうとしている。
しかし、今の若者に、そんな会話ができるのだろうか…