得意先は、聞いた?
「どういう関係で知り合ったのですか?」

長年付き合っているが、なぜ関係ができたのか?
それが恋愛関係なのか?
愛人関係なのか?
そういう問題ではない

大黒味噌醤油との取引関係ができたキッカケである。

軽米町の大黒味噌醤油との関係は、思い出そうとして思い出せないほど深くて長い関係だ(?)
たしか…

”タイマグラばあちゃん“の映画監督の澄川さんから、
「バァちゃんが亡くなったので家に残っていた味噌を処分したい」と電話があった。
当時、野菜畑を開店して数年経ったときだった。
当時は、その映画も知らず、
タイマグラという地名も、どこにあるのか?
どこから行くのか?も知らないまま、現地に行ってみた。
そこは早池峰の北山麓だが、森奥深い丘の上の家だった。
数人の男がいた。そこに住み着いた人たちだった。
桶に味噌が入っていた。
なんだか黒ずんでいる味噌である。
「なんとかして欲しい」と請われたが…
臭いといい、見た目といい、売れる代物ではなかった。
「袋詰め、してくれれば…」と言葉を濁しながら、周辺にあった人参や馬鈴薯をもらってきた。
そのときに、岩手の豆味噌を初めて知った。
というよりも味噌には米味噌・麦味噌・豆味噌と三種類あり、岩手の県北部や山岳地帯は豆味噌の文化だと知った。
味噌玉という大豆を煮て玉にしたものを天井に吊るすのである。
そこに麹菌が着いたものを天井から降ろして塩と一緒に漬け込むのである。
いろいろな人から聞くと、豆味噌は岩手県と愛知県の八丁味噌ぐらいしか無いと言う
そして残念ながら味噌玉を天井に吊るすのは、不特定多数の人に販売する生産方法として認められていない。と言う

当時タイマグラの民宿フィールドノートでは、ばぁちゃんから教わった味噌玉をつくりながらお客と一緒に味噌を仕込んで分け合っていた。
フィールドノートの味噌仕込み

フィールドノートのように個人として仕込むのは構わないが、
野菜畑のように不特定多数の人に販売するのは駄目だという
そこで入道は悩んだ。
なんとか豆味噌の文化を残さなければ…

そんなときに軽米町の古里斉が「おらほの味噌屋は、豆味噌を作っている」と言う
それなら、それを扱おうか…と思って大黒味噌醤油の豆味噌を販売を始めたのである。
しかし、その豆味噌は、もう一つ売れなかった。
味がしょっぱいのである。それと豆味噌特有の香が気になった。
とりあえず並べてはいたが…

そんなときに10年前になろうか…
秘伝シリーズの商品開発が始まった。
とりあえず味噌のラインナップは、
「米蔵」米味噌、
「およね」20割米麹味噌(秋田で言う高級味噌)
「豆蔵」豆味噌
の三種類を作った。

こびるコーナーだった、食堂部門は「こびる食堂」に格上げして
味噌汁は豆蔵に一本化した。
なぜなら豆味噌特有の香が出汁と相まって何とも言えない豆の香となって生き返ったのである
そして塩っぱさも、量を調整することで解決をした。
かえって使用量が少なくて済むという節約効果をもたらしたのである。
それでも自信を持って販売しているのは、ここ三年ぐらい前からである。

それまでは豆味噌は岩手の文化だと言いながら、
「時代の流れか…」と味噌汁を飲まない若者や、ご飯を食べない家庭、
和食を遅れているというような洋食珍重文化などで強い気持ちを失いかけていたのである

やはり地方は豊かな自然に恵まれた必然性の食文化を掲げないと…
米の取れない岩手は、豆味噌であった。

軽米町の大黒味噌醤油では。今は夏はオフシーズンである。
冬に作った味噌の発酵を促進し
夏を越した味噌を袋詰にしている作業の真っ最中であった

100年以上使用している木桶
もうタガを締める人はいないという
納豆を食べた人は入れない麹室
29年2月に仕込んだ豆蔵出来上がりは夏超えした10月頃か…