軽米の古里がやってきた。
町名といい、名前といい、いかにも地元の人と言う名前だ。
軽米町は、その名の通り軽いコメが取れるところだと聞いたことがある。
なんでも土壌のせいで軽くなるというのだ。
米は千粒重と言って「1000粒で何グラム」と言う重さの基準がある。
それによって充実度を判定するという。
酒造好適米という酒米は25gから…飯米は20g前後
酒米は削るから重い米でないと耐えられない(?)のだろう

ところが岩手最北端の軽米町で作る米は、軽くなるという。
いったい、どれだけになるのか?

 

その軽米町の古里との出会いは、もう20年ぐらい前になる。
ひさしぶりにやってきた古里は、顔が丸くなっていた。
「随分、楽してるな〜」と声をかけた
「楽してないですよ。ステロイドでむくんでいるのです」と言う
「なんでステロイドなのだ」
「免疫性の難病なのです」と言う
喘息だと思って医者にかかっていたが
大病院で調べたら血液の免疫が落ちて喘息のような発作を起こす難病らしい。
よく「アレルギーだったので無農薬農法をやっております」という農家がいる
彼もそういうわけではないが、20年前から県北部で独りで「無農薬の合鴨農法」に取り組んでいる

彼とは、栃木で行われた稲作研究会で出会った。
岩手県出身者はほとんどいなくて、ぽつんと一人いたので声をかけたのだ。
それから生産や出荷も、西根町や玉山村の連中に混じってするようになった。
その彼とは長い年月の付き合いである。
今は片道2時間ぐらいの場所なので、ジャム用のブルーベリーを持ってくるしか取引はない。
彼は言う「そういえば最初はチェリーバレーでした」

合鴨農法は、九州の古野さんが有名だが、本当は富山の置田さんから始まった。
MOAの信者だった置田さんは、教祖の岡田茂吉に
「これからは安心して食べるものが無くなる。安心して食べられる物を作りなさい」と戦後に言われ無農薬・無化学肥料で稲作を始めた。
ところが一番の悩みは雑草だった。水性雑草は田んぼに水を張るとあっという間に広がる
毎日草取りに疲労困憊して家の池で休んでいると、鴨が雑草を食べる姿を見た。
「これだ!」と彼は気づいて、田んぼに合鴨を放し始めたという。
そこへ「田んぼで合鴨を放して除草している」と聞いた九州大学農学部を卒業して家業の農業を継いだ古野さんが学び、電気柵を考案して一挙に広まった。
岩手には、横浜の米屋中村商店が持ち込んだ。
安全な米を扱い、また自分でも作る中村社長のアンテナに引っかかり、それを福島の熱塩加納村に持ち込んだのだ。
その中村商店に「岩手でも是非に」と願って
自然循環農業を標榜する”いわて手づくり農場”が、岩手で最初に取り組んだのである。
今でこそ無農薬の米は、当たり前になってきたが、当時は「無農薬栽培」できないと言われていた
最初に始めた置田さんの宗教心と、古野さんの飽くなき探究心が合鴨を全国区にして
岩手では横浜の中村商店と、滝沢村一本木にある”いわて手づくり農場“がおおきな役割を果たしたのである。
もう25年ぐらい前のことである

合鴨のひなを入手するのにできたら岩手で探せないか?と探したことが有る
それが田野畑村にある食用の合鴨の育成場だった。そこの品種は“チェリーバレー”だった。
合鴨は、鴨とアヒルの掛け合わせなので合鴨という。
チェリーバレーは合鴨と言っても、アヒルが勝った真っ白な合鴨である
食用として選抜されただけ有って、食欲旺盛ですぐ大きくなり、稲を倒して歩き使い物にならなかった
それ以上に田んぼに使用後、肉にするのにどこでも潰す方法がわからなかった。
ようするに水鳥なので細やかな水を弾く羽毛をきれいに取る技をわからなかったのである。
殆どのと畜場は、鶏ばかりで簡単に羽が抜けるのである。
そんな苦労を様々しながら、そして田んぼに放した合鴨を野犬や狐の餌になったりで、絵になるのでマスコミの話題にはなったが大きく広がらなかった
当時やり始めた農家を支えたのは、横浜の中村商店が買い支えたからである。
それが中村社長が亡くなった今でも続く。20年以上になる。

仲間のその後の消息をきき
「息子が跡を継いだ」と言うホッとした表情の古里は、月に一回病院に来ると言う
30歳ぐらいの働き盛りでであった古里も、もう55歳だという
歳月が過ぎた