「哲学寺子屋」が終わった。
そろそろか…と思っていたから
大げさに言えば、その時が来たという感じだ。

平成11年だろうか…スタートしたのは…
足掛け18年、長い期間だった。
ヒトが大勢集まったときは20人近くになった。
最近では2〜3人ということが多くなった。

哲学者内山節の著書の読書会で始まったものだが…
もう三冊目を終わろうとしている
三冊目「「清浄なる精神」は、まだ読みかけであるが…

「哲学とは何か?」と言う問いかけに、答えられない体育会系の営業畑の入道である。
日々、売上を上げることに没頭していた20代30代、
農業という仕事に出会って、その生産性の低さ、それに生かされているという驚きの40代。
哲学者内山節と出会った40代後半。
そんなことから立ち上げた哲学寺子屋であるが…。
哲学は、人間の本質を明らかにするものであると言う。

人間とは何か…
本質とは何か…

そんな疑問もすべて放り出して読書会を進めてきた。
それで良いと想っている
哲学が、そばにあることが大切なのである。
人間の生き方を問い、本質を探る哲学が、遠くに有っては意味がない

農業と一緒である。
”食べないと生きていけない”という人間にとって一番必要な農業が、近代化という波におされ、遠くに行き過ぎた。
そして「農業は難しい」「農業はつらい」「農業は効率が悪い産業」
と様々に言われ、衰退して行った。(後継者難や農地の荒廃)
しかし、最近のメディア取り上げ方の影響で「農業は近くにやってきた」
そして今、見直しの機運が起きている。
農業は簡単である。光合成で、みな生かされているだけである。
しかし光合成は、いかに効率よくしても、単位面積あたりの無料の日射量が限られているから生産量は増えていかない
農家の仕事は、光合成を最大効率化するだけの管理が求められるが、それも限界がある。
しかし、豊作だから腹いっぱい食べて、飢饉だから食べなくても良いと言うことに人間はならない
後は、八百萬の神々に祈るだけである。
つまり高度成長期の「効率化作業と拡大生産で販売路線を広げる」という人為的産業化路線が間違っていたのである。
(今も続いているが…)
だから他産業の経済成長路線とは、別の発想やスパンで取り組まないといけないのである。

それで、もう一つの人間の本質だが…
」である。
生理的欲から、精神的欲、社会的欲、さまざまな欲が絡んで人間がある。
欲がなかりせば…良いのだが
欲がなかったら人間ではないと思う(欲がないのは神様か?仏様だ!)
欲との戦いの経過人生なのか…
人間のあるべき姿を「少欲知足」とは、よく言ったりである。
しかし、それを常に言い続けていかないと、忘れるのも人間である。
「人間は忘れる動物である」

 

農業も、人間の生き方も、このように単純化してから考える
複雑化して考えると、 脳みそが硬直して筋肉化している小生には考えられない

人間が生きていくためには必要な食べものの農業と、生きていくための思考の元となる哲学も近くになくてはならない
それを近くに持ってきたのが、内山節である。
彼の言う言葉は、わかりやすい。
たぶん、もっと深いところでは、深遠な言葉で語るのだろうが…
頭脳が明晰な分だけ、わかり易い言葉で書き、しゃべる
今まで40歳迄のサラリーマン生活で、考えたことのないこと(学生時代に言葉だけは習った)を思い出して、
新しく気が付かされ、目覚めたことが多々有った。
そして内山節のことばは、今も続き、これからも学ぶのである。

 

そんなものである。
「遠くの親戚よりも近くの他人」とは、よく言ったものだ。
近くに農業も…哲学も…気軽に話ができるところがなければ…
そんな気軽な専立寺の哲学寺子屋が、18年の歴史を閉じた。

さて次は車座である。

日陰の福寿草が、木々の間から差し込む無料の日射量と、氷点下が続くなかのわずかな温度で花を咲かせた。