101歳の”むのたけじ”さんが朝日新聞に連載している
なんでも木瀬公二さんの聞き書きだという。

いぜん「人間の復興大学」の開講式に秋田から二人で来県され、終了後に当店で懇親会がわりの食事をされた。
その時は「もうすこしで100歳になります」と言っていたが、そんな歳には見えなかった。
とてもとても、小生はそんな歳まで生きられそうにないが、できたらあと35年先の世はどうなっているのか…
見たいものだ

しかし、世の中変わる様相を見せながら、この調子だろうと思う反面
生まれて一世紀もあれば大幅に変わる可能性があるのか…という期待もある

そんなことを思い出しながら朝日の連載を読んだ

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ココイチの業務用食材の横流しから、安いに飛びつく消費者を責め、本来の人間の生活のあり方を考えるという文面だが…

そこで”消費者と生産者の間に商いする人が入ったから間違いが起こる”とあった。
要するに、商人が予想した仕入れ量がさばけなくて、ごまかして売ったり捨てたりする構造ができるようになった。と言う
そうだろうか…。

 

どの時代のことを言っているのだろう?
江戸時代は、腐りやすい、しおれやすい葉物は、武家屋敷の裏で足軽や下男などが栽培していた。
若干日持ちのする大根類(亀戸大根や練馬大根)は、大八車やてんびん棒で江戸の街まで鮮度が届けられる範囲であった。
そして川越は、日持ちのする甘藷の産地として川を利用して江戸まで運ばれてきた。
戦国時代も含め江戸時代までは、食べ物が中心で街が形成されていた。
たべものが続かなければ、戦も勝てないし、何も生産しない武士の生活も成り立たないのである
その食べ物を誰が運んだか?
近くなら百姓だろうし、船や馬や大八車なら、やはり食糧を扱う業者だっただろう。
彼らは、信頼関係で成り立つ商売だったはずだ
そうでなければ、毎日せっかく運んだものが金に変わらないと言うことは、続かない。
金に変わらなくても、火鉢の灰(カリ肥料)の回収、し尿(窒素・リン酸肥料)の回収を行う必要があったので、
農作業に忙しい百姓が動けるのは近くの場合しかないはずである。
だから正確に仕入れる農家と販売先がわかっている商人がいたはずである。
そこには信頼関係があった。毎日の生業で、ごまかしや、ロスを生むほどの余裕は無かったのである。

江戸時代日本の人口は3000万だったという
現在1億2000万、食料自給率40%と考えると、5000万人が鎖国時代でも養えるが
江戸時代と比べ農業技術は数段進歩した数字である。
たぶん江戸時代は、3000万人がやっと食える時代ではなかったか?
だから節約して食べる、分け合って食べる。
山野草から茸まで、野山のさまざまなものを食べる技と智慧が出来ていた。
余り物を捨てる余裕など、なかったはずである。

それが明治の文明開化で欧米の産業革命が一気に入ってきた。
西洋野菜も白菜や玉葱ブロッコリーのように明治に導入されてきたのが数多く見られるが、
十分に行き渡るのはやはり昭和になってからだろうと言われる
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近場の流通は有ったかもしれないが、まだまだ遠隔地への化石エネルギーを利用した流通は無かったと思う
そして日清戦争や日露戦争のごとく食料を求めての領土拡張の戦争であり、
そのいさましい戦争も食糧や銃弾を確保しながら前進するという兵站という考え方がなくてはならなかった。

その明治をすぎて大正昭和と、まだまだ食料自給は程遠い
統計的には昭和36年頃からの統計しかないが…その頃90%近くあった。
まだ満足できないが、その凸凹を行き渡らせる化石エネルギーを利用した貨車輸送やトラックの流通が発達してきた
昭和30年台40年代前半までは、まだまだ市街には八百屋があり。魚屋が有り、食糧雑貨屋があった。
そこへ農業基本法(昭和36年)卸売市場法(昭和46年)など生産と流通の基本的な法律が整備されたが
そこへ現れてきたのが昭和37年開店の「主婦の店ダイエーの千林店」である。
このアメリカ型量販店は、一気に国内の隅々まで広がった。
小生が高校時代を過ごした昭和40年代前半の人口3万人程度の北上にも
当時「北上スーバー」「タシマヤフード」の2店舗が競っていた。

そのころからであろう
消費者と生産者が離れ
満ち足りているところから、足りないところへ流れていた流通が
金という腐らないところへと、方向を変えて流れていった。
また生鮮食品は保存する智慧や、すぐ食べる努力をしないで捨てられるようになったのは…

長い自給が出来ない歴史があり、どこからも食糧が入ってこない島国であった日本は、
”我慢”と”もったいない”という精神の習慣が根付いた
それが「知足(足るを知る)」という言葉だろう

高度経済成長とバブル、そしてグローバル化と経済成長を求める中で
”足る”を忘れた人々が、このような構造を作ってきたのだろう
しかし自分も、その社会の一部かもしれないという反省と認識をもつべきだろう