山岸が変わった。

昔、北上から盛岡へ移ってきた頃。
小生は学生だったから、高崎で独りの生活を楽しんでいた。
夏休み、冬休みは、合宿とかアルバイトとか旅行が無い時は、盛岡の実家に帰ってきたが誰も知人はいない
多分、岩手大に入った奴は、盛岡に居たのだろうが…ダレが入って、誰が落ちたのか?もしらない。
いきおい町を、ぶらぶらするか、本屋に行くか?パチンコ屋に行くか?
その程度だから実家に帰っても短期間だけだった。
新築の家は、田んぼの真中にぽつんと建っていた。
山田線の踏切から500メートル離れた家が見えた。
今は、さまざまな家が建って、邪魔して見えない。

住所は「外山岸」だった。
下小路から山田線の踏切まで山岸と呼ばれ、
今の山岸3丁目・4丁目・5丁目・6丁目、そして紅葉丘は「外山岸」でくくられていた。
父が北上から県営球場のスタンドの建設に通ったために、この土地を見つけたという

谷あいの細長い街に住宅が建っていたが、今はその山の上まで家が建っている
盛岡の繁華街から、歩いて小一時間だろうか?
バスならば、信号や乗降の時間が引っかかりながら来ても、20分とかからない
そんな地域のために、殆どの人は盛岡で買い物を済ませて帰るか
食べて帰ってくる
バスに乗らない人は、自転車からバイクがちょうどいい距離である
そんな山岸の真ん中にそば屋がある

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山賀食堂である。
多分、山岸と隣の加賀野を結ぶ橋。「山賀橋」という名前から採ったのだろう
板塀の大正時代を思わせる外観であるが…裏から見るとトタンで補修している
山岸に三軒あるそば屋の一軒である
息子が事故を起こした夜は点滅になる交差点の角にある。
一度食べてみたいと思っていたが、
三ツ割の坂の途中にある車の修理工場の休憩室にメニューが貼ってあった。
いかにも昔の食堂と言うメニューが豊富に有った
「ここまで出前するの?」と工員に聞いたら
「注文すれば来るよ」と言う
ラーメンが伸びないのか?
そこまで出前しないとやっていけないのか?
片道5kmはあるだろうか?

その山賀屋も閉店したという

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看板も取り外し、表のガスボンベも片付けられていた
三軒が寄り添うようにあったそば屋は、一軒だけになってしまった。

山賀橋も付け替えられ、新しい道路がつけられながらも
メインストリートは、バスもすれ違うのが往生する狭い道だ。
昔からの八百屋が、寿司屋が… 燃料屋が…居酒屋が…どんどん無くなる
たかだた40年の間に、これだけの変容を遂げる

江戸時代、明治・大正、戦前と小さな町が大きく変わる時代があったのだろうか?
こつこつと真面目に働けば、生きていける時代では無くなったような気がする
そういえば昔、議論をしていて
「ある程度の競争は必要だ」という奴に、うなずいていた自分を思い出す
ある程度の競争などで止められるわけはないのだ「貨幣経済」は…