机に向かって考えた。
「下手の考え休むに似たり」というが…
しかし、「人間は考える葦」だという

昨年二月からblogを初めて、もうすぐ一年になる
「一日2本」を目標にしてきたが…達成出来た月は、無い。
二日酔いや、呑みすぎて寝坊したときは、かけない、(酒が原因だ!)
数多く書けば良い。と言うモノではない
読む方だって、つらい
大体が読み返してみても、そんなに面白いモノはない
別に面白いモノを綴ろうと想っている訳ではないが…

blogは、実験なのだ

昭和30年代の末、「主婦の店ダイエー」が出来てから、流通業が変わった
いや「地域」そのものが変わった。

それまでは肉屋、魚屋、八百屋、米屋など、様々小売業が地域にあり、小商いをしていた
売上は小さいが、客との関係性の中でモノのやりとりがあり、金銭の授受があった。
会話が無いと成り立たない世界ということだろうか?
そして、それは商圏という「ちいさな地域」も、作っていた、

それを量販店は壊した。
拡大に拡大を続けて、回りを吸収し、そして今、大規模量販店は、流通業ではなく不動産業になった。
フロアーを貸して賃貸料を取るという。
また中小の量販店は、多くの商品を並べて選ばせると言う、販売をしている。
「売る」と言うことではなく「選ぶ」という手法である
これは売上という数字を上げるには、効率が良い。会話をしなくても良いから…
ただ、「在庫を持つ」という、ある程度の資本力が必要とされる

ちいさな「○○屋」の小売業は、結局、成り立たなくなってしまった

そこで出てきたのが「街角のコンビニ」である。
大量の在庫を本部にもち、的確に届け、画一的な
「いらぁしゃいませ、こんにちはぁ〜」さえ覚えれば、誰でも出来る。
なにがどこにあるかさえ、分かればいい。そこには、会話が無い。
それどころか、競争相手がでてくれば、簡単に無くなる。

産直でさえ、そうである。
並べて選んで貰う。そこに会話が無い。
顔が見えると言いながら、顔が見えれば良いのか?という検証がなされていない
顔が見えたら困る生産者もいる。
(「何故それを作っているのか?」と聞かれても、農協が作れと言うから…
売れそうだから…誰それのが売れているから…と言うだけである。
たまに「消費者の安全の…」という農家がいるが、それは高く売れるからである)
消費者は顔を見せないで、生産者が顔が見えるという一方的関係でいいのか?
並べられた商品は、畑のモノでしかない。畑にモノが無かったら、何もない
当たり前だが、それで客は生きていけるのか?
食糧は、有るときだけ食べて、無かったら食べなければいい、と言う事にならない
保存食など並べても、新鮮なモノを求めるためにくるのだから客はこない。
それで、青果物の流通は、良いのか?

それに映像文化の影響もあるだろう
テレビが様々な情報を流す。
ラジオは創造力を豊にするが、視覚に訴えるテレビは直接的である、
テレビを見て「この商品が欲しい」という欲求は、消費者ニーズと言う言葉を生んだ。
大量につくられコストが下がり、消費者に届けられた
「安くて良い物」という言葉が作られ、画一した商品で埋め尽くされ、会話する必要がなくモノが選べる

 農産物でさえそうである。ある試験場の研究員が独白していた、
「各地にある地大根を、青首大根一色にしたのは、わしらの責任だ」
文化を金にして売り払ったのである。

なんだか貧しくないかい?

会話が無い。商品は画一化。
文化や地域が劣化したのは、流通のせいではないか?

もともと流通は生産者を育て、客の要望の一つ一つを聞き
的確にモノを薦め、商品を円滑に流す、
そこに存在価値があったのだと想うのだが…
だから接している人の信用(安心の関係)が、大事だった
○○屋は、そこに住んでいること自身が安心の関係だったのだ

今「食の安心安全」と呪文のように唱えているキャスターが多い
テレビやマスコミ自身が信用できないのに…
「おまえに安心なんぞ、いわれたくない」と想うのだが…

安心とは、関係性の世界なのだ
その関係性のキッカケが、blogで作れるか?