中村輝夫が死んだ。享年83歳だったという。

                                   
南洋から引き上げ、横浜で米屋を営み、昭和39年に中村商店を法人化した。
単なる米屋ではなかった。
電子技法を学び、昭和50年には米ぬか石鹸を作り、合成洗剤排除運動を始め、昭和54年には有機農業運動と出会い
会津の熱塩加納村(あつしおかのうむら)の”さゆり米”を育てた。
岩手との出会いは、昭和の末に電子技法の電子水製造装置を”いわて手づくり農場”に納めたことから始まった。
当時、熱塩加納村の生産者や農協との様々な関係の中で悩んでいた彼は”第二の熱塩加納村”として岩手を選んだ。
平成3年には、合鴨農法を岩手に紹介し、玉山・西根の生産者グループによる有機米「啄木米」を育てた。
岩手にとって合鴨農法を育てた人である。
それが高じて彼は、玉山に水田まで購入してしまった。

平成2年に岩手に戻り、手づくり農場の勤め始めた小生にとって、有機農業を初めて教えてくれた人である
そして合鴨農法を岩手で最初に取り組む事になった。
その後、岩崎善隆と畠山幸夫に合鴨農法を教え、それから徐々に裾野が広がり、
平成12年には「全国合鴨フォーラム岩手大会」を盛岡つなぎ温泉で開催するまでに至った。

                                        
福岡の古野隆雄が合鴨農法に新しい電気柵を導入し、全国に飛躍的に広がり、古野隆雄が一躍脚光を浴びたが
合鴨農法は、古野隆雄も中村輝夫も、富山の置田俊雄さんから学んだのである。
古野隆雄が、元祖みたいに世間では騒がれていたが、中村輝夫は置田さんを大事にして古野隆雄を苦々しく思っていた。
 

富山の置田俊雄さんは”MOA”の信者である。
MOAの創始者岡田茂吉から「これからは化学肥料や農薬の汚染で、食べられるものがだんだん少なくなる」
と教えられた置田さんは、ある日、自宅の池で鴨が水草を食べているのにヒントを得て「合鴨農法」に気がついた
試行錯誤しながら「田んぼの除草に合鴨が使える」と言うことを発見した。
そこへ古野隆雄が夫婦で学びにきた。彼は、それを電気柵で囲えるようにし、合鴨農法の「一鳥万宝」という精神を顕した。
その後、彼はスイスの財団から”世界でもっとも傑出した起業家”として表彰され、NHKのプロフェッショナルにも出演した
古野隆雄のアイディアは、だれもが認める。
しかし、最初に発見した人を評価しないでいいのか?というのが中村輝夫の考えである
(一部では置田俊雄の近くの農家、荒田清耕が最初だと言う人がいるが、置田さんに話を聞いた限りでは、違うようである)
 

中村輝夫は、熱塩加納村のさゆり米(さゆり米というのは熱塩加納村のブランドのように言われているが中村商店のブランド)を
「つくっただけ全量引き取る」といって、熱塩加納村に有機米と合鴨農法を広めた。
だれもがアイディアは浮かぶが、実際に売れないと広がりが持てない。
彼は、リスクを承知で一歩踏み込んだのである。
そして、それを彼は、岩手にも持ち込んだのである。
「作ったもの全量引き取る」と…

「水を飲むとき、井戸を掘った人を忘れず」と中国の言葉にあるが

彼は置田さんを忘れず。小生は中村輝夫を忘れない。